ひき出して眺め、
「おお、もう九時だ。……実はね、今日、九時半になると、非常臨検《ラッフル》があるはずなんです。そろそろお帰りにならないと、うるさいことになる」
食堂の方を振返って見ると、なるほど、海象《モールス》のような顔をした主人のほか、ひとりの人影もなかった。
「ご心配には及びません。ヴィエットの市門《ポルト》のところまで私が送ってって差上げます」
市門《ポルト》を出ると、カラスキーは、骨ばった手でこちらの手を握って、
「では、ご機嫌よう。どうぞ、ムッシュウ・ヤマカワによろしく」
呟くような声でそう言って、軽い咳をしながら舗道の闇の中へ紛れ込んでしまった。
三
山川石亭先生が、けたたましく扉《ドア》を叩く。どうもうるさい先生だ。ブツブツ言いながら扉を開けると、石亭先生が右手に号外を鷲掴みにして、顔じゅう眼ばかりのようにして飛び込んで来た。
「どうも、えらいことが始まりました」
「あなたのえらいことには聞き飽きましたよ」
「冗談じゃない、大事件だ。大事件だ。……ゴイゴロフがズーメ大統領を暗殺したんです。……ああ、こんな事ってあるもんだろうか。わたしは、たいへ
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