る。どうだ、はっきりしたところをぬかせ。わたしは、顔に、ちょっとこう凄味《すごみ》をつけましてねえ、ニヤッと笑ってみせたんです。だいぶむかしのことですが、高等学校で、シェークスピアの『アントニーとクレオパトラ』の英語劇を演《や》ったとき、わたしはクレオパトラを演じまして全校を悩殺したことがあるんだから、そういうほうには少々心得があるのです。……さて、そういう凄い顔をして、わたしがいったい何を言ったと思います。……それはモノによるねえ。洒落《しゃれ》や冗談で極東《エクストレーム・オリヤン》からはるばる流れて来たわけじゃないんだ。それを承知で持ちかけるんだろうな。……と言っておいて、ゾクッと慄《ふる》えあがりました。眼が眩《くら》んで、もう少しで酒呑台《コントアール》のほうへよろけて行くところでした。……いや、はや、実にどうも、慨歎《がいたん》に堪えんことです。するとゴイゴロフは、ひどく頼母《たのも》しそうな顔をして、おお、そうか。見そこなってすまなかったなァ。おまえさんがそんな|偉ら方《マジョール》とは知りませんでしたよ。……言葉つきまで急に丁寧になって、……もっともらしい顔をしてしちめんど臭い本なぞを読んでるが、どっちみちそんななァぼくよけ[#「ぼくよけ」に傍点]だろうと睨《にら》んでいたんでさァ。ところで、あんたがそういうひとであれば、これゃア、いよいよもってかたじけねえんです。その辺の|がらくた《クレアチュール》を引っ張って行くのとわけはちがうんだから、いっそ弾みがつきまさァ。……と、といったぐあいに、調子よくトントンと話が進んで、とうとう、さっき言ったような破目になってしまったんです」
 この小心な石亭先生が、どんなようすで盗っとと渡り合ったか、どんな経緯《いきさつ》で抜き差しならないことになったか、その辺のようすが眼に見えるようだ。思うに、石亭先生は、例の向う気から、大風呂敷をひろげた手前、否応なしに盗人の先陣をうけたまわることになってしまったのらしい。
 先生の訪問の目的はこうだった。
 今になって破約をしたら、どっちみち、只ですむわけはない。向うとしては、場所まで打ち明けてしまったのだから、わたしが変心したと知ったら、たぶん生かしてはおくまい。あの気狂いじみた、殺伐な男のことだから、その危険は充分にある。大人は豹変す、の筆法で、わたしは「本郷バー」へ帰らずに、このままどこかへ蒙塵《もうじん》してしまうつもりだが、なんとしても心がかりなのは、あちらへ残してきた調査資料で、長年の努力の結晶をあのままあそこへ放っておくわけにはゆかないから、田舎にいた甥がとつぜん叔父を訪ねてきたていにでもして、しばらく、わたしの部屋で寝泊りし、ゴイゴロフに覚《さと》られぬように、折を見て少しずつ持ち出してきてもらえまいか、というのだった。
 先生は、丸まっちい肩を昂然《こうぜん》と聳《そび》やかすようにしながら、
「ねえ、そうでしょう。退歩説の実例を挙げるために、わたし自身が殺されるのでは、これぁイミないですからねえ!」
 といった。

      二

 巴里の北の町はずれ、ラ・ヴィエットの市門《ポルト》からプウル・ヌーヴのほうへ行く町角に、※[#「木+眉」、第3水準1−85−86]《なげし》にニスで「洪牙利亜兵《ロングロア・ヴェール》」と書きつけた、安手な一品料理店《プラ・ド・ジュール》がある。
 これが、石亭先生いうところの「本郷バー」である。少々、舌ッ足らずの石亭先生が、「ロングロア・ヴェール」と発音すると、これが、どうしても「本郷バー」としか聞えない。先生は世事に疎《うと》いほうだから、いっこう気づかれぬ模様だったが、ある時、その多少の諧謔《かいぎゃく》味のあるゆえんを説明すると、石亭先生は、やにわに膝をうって、
「それァ、いいですな。今度から、本郷バーと呼ぶことにしましょう」
 と、ひどく勇み立った。
 ちょうど夕食|刻《どき》で、悪しつッこい玉菜《キャベツ》の羹汁《スープ》の臭いがムウッと流れ出してくる。
 もっさりした棉紗のカーテン越しにおずおずと内部《なか》を覗《のぞ》き込んで見ると、ジメジメした土間にじかに食卓《テーブル》を置いた横長の部屋で、「望郷《ペペ・ル・モコ》」に出てくる悪党《フィルウ》そのままの、ゾッとするようなじだらくな恰好をしたのが二十人ばかり、何か大きな声で叫び交しながら、乱雑極まる食事をしている。
 いずれも鳥打帽の横ッかぶり。血腸詰《プウダン》やら、河沙魚《グウジョン》の空揚げやら、胎貝《ムウル》と大蒜《にんにく》の塩汁、豚の軟骨のゼラチン、犢《こうし》の脳味噌を茹《ゆ》でたやつ、……市中の料理店の献立表《ムニュウ》ではあまりお眼にかかれぬような怪奇なものを恐れ気もなく食っている。なんでもない、ちょ
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