いう非常のときにも、学者らしい執着を忘れずに蒼|褪《ざ》めた顔をしながらいかにもそのひとらしく、こんな減らず口を叩く。
「なにしろ、わたしのような廉潔な老学徒を盗っとに誘おうというのですからねえ。発達的に言うと、たしかにこれは反省道徳が退歩しつつあるという顕著な実例になります」
「道徳のほうはどうでもいいが、それで、いったい、何を盗もうというんです」
先生は、また嫌な顔色になって、
「そのへんのことは、どうも、はっきりしないんですが、……大体において、サン・トノーレ街あたりの金持の屋敷へ押込むということになっているらしいんです」
「それで、あなたは、どういう役をつとめるんです」
先生は、臆病そうな眼ざしでチラとこちらを見上げて、
「窓を壊すほうはゴイゴロフという、わたしを誘ったやつがやるんですが、最初に[#「最初に」は底本では「最初は」]這《は》い込むほうの役は、わたしに振り当ててあるらしいのです」
これは、たいへんなことになった。
勅任官。文学博士。勲五等。五十七歳。身長一|米《メートル》五五。猪首《ししくび》で猫背で、丸まっちい、子供のような顔をしたこの小男の石亭先生が、泥棒に尻を押されて、露台の窓から、不器用な恰好で這い込んでゆくようすときたら! 劇的《ドラマチック》とでも言いましょうか、それこそ、まさに天下の奇趣である。
先生の放心《うっかり》は夙《つと》に有名なもので、のみならず、たいへん不器用である。持って出た雨傘を持って帰ったことはなく、この年齢《とし》になって、じぶんで鶏卵《たまご》を割ることができない。それに、物臭《ものぐさ》で、不精で、愚図で、内気で、どういう方面から考えても、泥棒のお先棒などには、まずもっとも不適当な人格《キャラクテール》である。
「でも、あなたをお先棒に使ってみたってたいして役に立ちそうもないと思われますがねえ」
先生は、ムッとしたようすで、
「いや、そう馬鹿にしたもんではない。やらしたら、これで、案外、相当なところまでやってのけられると思うんだが、そういうことは、わたしの道徳的理想と少しばかり喰いちがうので、それで、やらないだけのことなんです。勘違いしないようにしてください」
「いったい、どんなことから、そんなに見込まれるようになったんです」
「わたしのような倫理学者を介添に連れて行くと、少しでも良心の負担が軽くなりますからねえ。むこうの目的はそこなんだと思うんです」
「はっきりお断りになれなかったんですか」
先生は、悩ましそうな溜息《ためいき》をついて、
「それが、そう簡単にゆかぬわけがあるのです。……どうも、すこしばかりいい加減な相槌を打ちすぎたようです。……それに、それとなく、油を掛けたようなところもあったようで……」
「あなたともあろう方が、盗っとを煽《おだ》てるなどというのは、よくないですな」
「たしかに、感興にまかせて深入りしすぎたようです。しかし、これも、研究に対するわたしの素朴な精神昂揚《エフクタルザシォン》によることで、それについては、みずから少々慰める点もありますが、実際問題のほうは、二進も三進もゆかないところへきているんです」
「石亭先生、あなた、まさか、承諾したんじゃないでしょうね」
先生は、叱られた子供のように身体を縮めて、
「……じつは、……承諾したんです」
「これは、驚きました」
先生は、しょんぼりと顔を上げて、羊のような優しい眼でこちらを見上げながら、
「わたしとしては、どうにも、止むにやまれん次第だったんです。……この辺の機微は、くわしくお話しなければご諒解を得ることができまいと思いますが、かいつまんで申しますと、だいたい、こんな具合だったんです。……今日の昼、階下《した》の土壇《テラッス》で飯を食っていますと、ゴイゴロフという肺病やみの露西亜《ロシア》人が、わたしのそばへやって来て、オイ、二階の先生、景気はいいか、というから、いや、どうもこのごろはシケでとんと上ったりだ、と答えますと、ゴイゴロフは、そいつは気の毒だ。なア、禿頭、そういうことなら、ちょいとウマイ話があるから一口乗せてやろうか。とんでもなくウマイ話なんだぜ。そこで、わたしが、けっこうだねえ、といった。……はなはだ怪《け》しからんことですが、この辺のことは、ああいう社会では、いわば日常の挨拶のようなもので、こんなことをいちいち気にしていたんじゃ、ああいう区域《カルチェ》には一日だって住んでいられない、わたしにすれば、そういうつもりだった。ところが、ゴイゴロフのほうは、ひどく乗気になって、じつは、ちょっとした経緯《いきさつ》があって、おまえのようなもっともらしい顔をした禿茶瓶《はげちゃびん》の相棒《コバン》がひとり欲しかったんだ。おまえにその気があるんなら、いい割をくれてや
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