っとしたことだが、いかにも別世界へ飛び込んで来たような、なんとも言いようのない頼りない気持を感じさせる。
 いつまでも尻込みをしていてもしようがない。ありとあらゆる勇気を非常召集して、グイと硝子扉を開けて内部《なか》へ入った。
 ひどい臭気と温気が微妙に混り合って、もうもうと立ち罩《こ》めている。赭土の土間の上には、青痰やら、煙草の吸殻やら、魚の頭、豚の軟骨、その他雑多なものが参差《しんし》落雑していて、ほとんど足の踏み場もない。
 いかに石亭先生の依頼とはいいながら、こういう上品優雅な環境のなかでこれから四、五日暮さなければならぬかと思うと、いささか分に過ぎるようで、なんとなく心のほてりを感じる。
 海象《モールス》の牙のような太いダラリ髭を生やした主人《パトロン》らしいのが、水浅黄の|油屋さん《タピリエ》を掛けてひとを馬鹿にしたような顔で酒呑台《コントアール》のそばに突っ立っているから、そのそばへ行って、ゴイゴロフというのはどいつだ、と訊《き》くと、ゴオルキイのような顔をした青前掛は、ニュッと大きな眼玉をむいて、
「てめえは、なんだ」
 と、叱咤した。
 オドオドしていたんじゃなめられてばかりいてしょうがないと思ったので声に力みをつけて、
「おれは、山川石亭の甥だが、ゴイゴロフといううんてれがん[#「うんてれがん」に傍点]にちょっと言伝《ことづけ》を頼まれてやって来たんだ。ついでだから言っておくが、叔父の身代りに四、五日ここへ泊るつもりだから、そのつもりでいるがいい」
 と、威勢よくまくしたてた。少なくとも表面はそう見えたのである。
 青前掛のゴオルキイは、鼻翼《こばな》をふくらませて、ふうん、と嘶《いなな》いてから、
「おめえは、あの禿頭の甥ッ子か。なるほど変った面をしていやがる。まるっきり、河沙魚《グウジョン》だぜ」
 と、失礼なことを言った。
 しかし、こういうのがこの辺の気質なのだと思えば、腹も立たない。もっとも、腹を立ててみても、迂闊にそういう表現はできないのだから、煎じつめたところ、同じことのようである。
「よく皆がそう言うね。頭でっかちで骨ばっているところなんざ、セーヌ河の河沙魚《グウジョン》のようだってね。たいして面白くもねえ。何かもっと変ったことを言ってみたらどうだ。……そういえば、おじさん、おまえは海象《モールス》に似てるねえ、やっぱり、あッちのほうから流れ寄って来たのかい」
 ゴオルキイは、とつぜん、咽喉仏が見えるほど大口を開いて、ふわァと笑い出し、
「畜生め、海象《モールス》とは、うめえことを言うじゃねえか。ふん、こいつァいいや」
 そう言って、みなが食事をしているほうへ向って、
「おい、ピポ! この|悪たれ野郎《コキャン》がおまえに喋言《ジャボテ》してえそうだ。|掻喰い《ブウロタアジュ》がすんだら、こっちへやってきねえ」
 と、怒鳴った。
「おい、兄《あん》ちゃん、何かひと口しめしなよ。鸚鵡《ペロケ》でもやろうか」
 鸚鵡《ペロケ》、……どうせ、何か飲物の隠語だろうが、学校の悪たれどももさすがにこうは言わない。向うみずに引受けると、どんなものが飛び出してくるかわからない。やんわりと辞退した。
「まあ止めておこう」
「じゃア、石油《ペトロール》はどうだ」
「ガソリンや石油はなるたけ飲まないようにしているんだ」
「何を言ってやがる、このボケ茄子《なす》め、おいらのところの火酒《ペトロール》にガソリンなんざ入ってやしねえやい。ふざけたことを言いやがるとぶッ叩くぞ」
 これはどうも、そろそろいけなくなってきた、と、薄ら寒くなっているところへ、犂《からすき》の柄のようにヒョロリと瘠せた、影のような男が、ぼんやりとそばへ寄って来た。
 頬がすッこけて、色の褪めた壁紙のような沈んだ顔色をした、二七、八の青年である。ひどい顔面神経痛で、時々、ギクシャクと頬を痙攣《ひきつ》らせる。狂信者によく見る、おれだけが世界の真理を把んでいると確信しているような、ひどく落着き払った奇妙なようすをしている。
 ところで、その眼たるや、ちょっと形容しかねるような物凄いようすをしている。ひと口に言えば、烏眼《くろめ》が画鋲の頭ほどの大きさしかなくて、白眼がひどく幅をきかせている。西洋ふうに言えば「凶眼《ベーゼル・プリッツ》」日本ふうに言えば、れいの四白眼。その代表的なやつなんだからタジタジとなった。これゃア、えらいやつが現れて来たと思って、すくなからず萎縮していると、犂の先生は、いやに指の長い、仏手柑《ぶしゅかん》のような、黄ばんだ瘠せた手を差しのべながら、海洞《ほらあな》へ潮が差し込んで来るような妙に響のない声で、
「わたくしがゴイゴロフですが、あなたは?」
 と、言いながら、いま言った、あまりゾッとしない眼でまともとこちらの顔を
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