眺めた。
それにしても、これがゴイゴロフなら、石亭先生の描写した人間とはだいぶ懸隔《へだたり》があるようだ。先生の言われたところでは、おい、禿頭、ちょいと甘い話があるからひと口のせてやろうか、といったような横着な口吻《こうふん》でものを言う男だったが、見るところ、このゴイゴロフは、一種の沈鬱的人物であって、どこを叩いても、そんな陽気な調子が出てきそうもない。のみならず、こういう区域《カルチェ》の人民とは思われないほどテニヲハがはっきりしていて、悪《わる》丁寧なほど慇懃懇切を極める。
身装《みなり》も、それに準じて、スマートとはゆかないまでも、一応、さっぱりした見かけをしている。スフ入りはスフ入りだが、膝も丸くなっていないし、衣嚢《ポーシュ》もたるんでいない。なにか一期の晴着といった改まった感じで、その後このことを思い合して、この印象が決して間違いでなかったことを、むしろ薄気味悪くさえ思った。
おそらく、ゴイゴロフに手を差しのべさせたまま、やや長い間、薄ぼんやりと相手の顔を眺めていたのに相違ない。ゴイゴロフは、もう一度、同じことを繰り返した。
「わたしはカラスキー・ゴイゴロフですが、あなたは、どなたでしょう。どういうご用事ですか」
こちらは肺病やみの盗っとと掛合うつもりで来たのだったが、こんなふうに開き直られたのですっかり面喰ってしまった。へどもどしながら、山川石亭先生が急病で、不本意ながらあなたとのお約束を果すことができなくなったという意味のことをはなはだ曖昧に吐露した。
これを言い終った末、いったい、どんな波瀾が捲き起されるか。これこそは、相当、凄味《スリル》のある瞬間だった。
ところで、カラスキー氏は、大して驚いたようなようすもしない。それどころか、叙景的にいえば、雨雲の間からぼんやり秋の薄陽が洩《も》れて来るようなしんねりとした微笑が、色の褪めたような顔のうえに射しかけてきた。たしかにこれは意外だったので、いよいよもって度胆を抜かれた。
カラスキーは、そういう微妙な薄笑いをしながら、れいによって、非凡な四白眼でこちらの眼の中を覗き込みながら、
「すると、ムッシュウ・ヤマカワは、だいぶ恐慌していられるのでしょうね」
どうも、話がだいぶ喰い違ってきた。有体《ありてい》に白状すべきかどうか、さんざ迷ったすえ、とりあえず、こんな具合に当り触りのないことを言ってみる。
「ええ、どうも、それがねえ、いっこう、とりとめがなくて」
カラスキーは、肱をとって、ゆっくりと隅のほうへ連れて行き、そこの椅子に掛けさせると、隠したって何もかも先刻ご承知だという顔で、
「わかっています。相当念入りにやったつもりですから、おそらく、先生は慄え上っていられるでしょう。……わたくしはムッシュウ・ヤマカワが道徳社会学を専門にやっていられる篤実な学者《サヴァン》だということをよく知っているんです。……ところが、どういうものか、先生は、たいへんに悪党振られる。すっかり悪徒気取りで、去年の三月には、国立割引銀行《デスコント・ナショナル》の使童《グルウム》を襲って三千|法《フラン》ばかりせしめたの、体育場《イッポドローム》の出札嬢を威《おど》して有金残らず頂戴してきたことがあるのと途方もないことを言われるのですな。こいつを、見当ちがいな隠語《アルゴ》まじりかなんかでやるんですから、聞いていると、噴き出さずにはいられないんです。……こっちがいっこう相手にしないもんだから先生|焦気《やっき》となりましてね、これでもか、これでもかというふうに、一日ましに法螺《ほら》の桁がひとつずつ上ってゆくんです。このごろは、金高のほうも相当莫大になりましてね、二十万|法《フラン》ばかりのところへ行っているんです。……人間《ひと》もだいぶ殺しましたねえ。わたくしの知ってるところでは、坊さんが三人、タキシーの運転手が二人、歯医者が一人に造花屋の女工《ミジネット》が一人。……だいたい、こういった塩梅《あんばい》なんです。たいへんな虐殺です。ここへ来る連中も、とても先生には敵《かな》わないということになってしまって、まるで腫物にでも触るようにビクビクして、うっかりそばへも寄りつけないようなありさまなんです。実際ね、先生にとっ捕まっちゃ百年目。この世に有りとあらゆる悪事の総|浚《ざら》いをされるんだから、たいがい茹《ゆだ》ってしまうのです。放っておくと手に負えないことになりそうなので、今日の昼、出鱈目なことを言って、ちょっと先生を威かしてみたんですが。……どうです、薬が効いたようでしたか? あの臆病な先生のことだから、さぞ、仰天なすったことでしょうね」
いやはや、とんだことを聞くものだ。先生が、こんなところでそんな馬鹿の限りを尽していられようとは、さすがに知らなかった。同国
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