心を害《そこな》うことのない、もっとも聡明な方法で、当然、先生にひどい厄災《やくさい》を齎《もたら》すであろう危険な地区《カルチェ》から、それとなく追い立ててくれたのだった。
 とても恍《とぼ》けているわけにゆかなくなり、われながら、少しばかりムキになって、
「すると、あなたは、つまり、石亭先生を……」
 と、心からなる感謝の意を述べようとすると、カラスキーは手を挙げて、
「その後はおっしゃってくださらなくてもけっこうです。格別、何をしたというわけでもないんだから。……先生に対するわたしのひそかな尊敬と友情が、陰ながら、いくぶんでも、先生のお役に立ったとしたら、それに越した喜びはありません」
 そう言って、ゆっくりと両足を踏み伸して、背凭のとれかかった古い籐椅子の中に沈み込むようにしながら、
「……わたくしもね……私もむかし、モスクヴァで、ベイエの道徳社会学を勉強していたことがあります。結局、ものにならなかったことは、この風体をごらんになればおわかりになるでしょうが。……ああ、しかし、あの頃の生活は私の生涯にとって、いちばん楽しい時代でした。……辛い勉強の間にも、私はいつも希望と理想に守護されておりましたし、また田舎には、年とった母がまだ生きていた。大試験《テルム》が済んで田舎へ休暇に帰って行く、その楽しさといったらありませんでした。長い野道の向うに、私の家が見えかかってくると、私は、嗚咽《おえつ》を止める力さえなかったほどでした」
 カラスキーの頬に、ほのかな血の色がさし、その眼は、じかに何か好もしい風景にでも触れているような、一種恍惚とした翳《かげ》の中に沈み込んだ。
「……わたしの田舎は、ドニエープル河のそばのザパロージェというところにあるのです。河の名前ぐらいはお聞きになったことがあるかもしれない。ウクライナの南のほうです。……夏が近くなると、野生の雑草が繁った茫漠《ぼうばく》とした草原の中に、数限りない花が咲乱れています。高い草を押し分けるようにして、連翹《れんぎょう》色のオローシカが咲いている。黄金色のえにしだ[#「えにしだ」に傍点]が三角形の頭を突き出し、白い苜蓿《うまごやし》が点々と野面《のづら》を彩っています。……鷓鴣《しゃこ》が飛び出す、鷹がゆるゆると輪を描く。……夕方になると、湖から飛び上った白鳥の列が、銀の鈴を振るような声で鳴きながら北のほう
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