娘が……」
 冷淡な声で、番頭が遮った。
「昨日は、お発ちになるお客さまばかりで、お着きの客はございませんでした」
「でも、昨夜、土壇《テラッス》で……」
「ご旅行の方が、ご自由にお立ち寄りになりますから」
 ご旅行の方! この、ちょっとした言葉が、針のように鋭く竜太郎の耳を抉《えぐ》った。
「今朝早く、鼬鼠のケーブを[#「ケーブを」はママ]着た」
 番頭は、手で遮った。
「なにしろ、手前は、たったいまここへまいったばかりでございますから、何分にも……」
(昨夜、十二時半が鳴るのをたしかに聞いた)
「では、昨夜おそく……たぶん……」
「なにしろ、大勢のお客さまのことでございますから」
 竜太郎はしおしおと、自分の部屋のほうへ帰りかけた。
 何とも言い表し難い、はげしい孤独の感じが、鋭く胸を噛んだ。竜太郎は、この長い間、いつでもひとりで暮らしていた。しかし、こんな寂しさを感じたのは、これが最初だった。世界中から自分ひとりだけが見捨てられたような佗びしさだった。自分の部屋の前へ帰って来て、ふと見ると、部屋の扉が半開きになっている。感動して、思わずそこで立ち止った。息苦しくなってギュッと拳を
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