撓《しな》う小さな手だった。
「……そこで、あなたの名は?」
 少女は返事をしなかった。
「では、苗字だけ」
 少女は、悲しそうに、首を振った。
「あなたのことは、何もきいてはいけないのですか」
「えっ、何も!……どうしても、それは、もうしあげられませんの」
 そういうと、気がちがったように、竜太郎の手を自分の胸に引きよせながら、
「どうぞ、あたくしを、好きだと言って、ちょうだい」
(どの女も、どの女も、みな同じようなことを言う。……あたしを好きだっと言ってちょうだい)
「ね、……どうぞ、たったひと言でいいから……」
 竜太郎は、そっと、ため息をつく。
「お嬢さん、あなた、だいすきです。……私は、あなたがどんな方なのか知らないし、お目にかかるのも今日がはじめてですが、あなたを好きになるのに、それでは不充分だということはない。……あっ、このまま、あなたと離れないですむなら……」
 どんな出鱈目でも、平気で言えそうだった。
(どうせ、明日までのいのちだ。言いたいだけたわごとを吐いて見ろ)
 明日までのいのち……。
 もう、馴れ切ったはずのこの考えが、石のように重く心の上に隕《お》ちかかり、
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