王女殿下はわずか、五歳でしかあられなかったので、やむなく、父系のステファン家から、ウラジミール・ポポノフを迎えて、ステファン五世といたしました。……昨年の末、ステファン五世は、過度の飲酒からくる心臓弁膜症で、病床につかれるようになり、追々、険悪な状態に向いました」
十一
老人は、眼に見えぬほど頬を紅潮させて、
「今年の一月末、とつぜん、王党派の陸軍大臣イゴール・アウレスキーが枢密顧問官に推薦され、大臣には、陸軍次官のイッシャ・ポチョムキンが転補されることになりました。……これらの者は長い間、ステファン家と王党派の緩衝をつとめ、どちらの側からも比較的好意を持たれていた男なのですが、就任早々、定時の春季機動演習を一カ月繰り上げて二月二十日に行うむねを発表して、近衛師団の大部分をポラーニヤの北部に移動させてしまいました。われわれは早くも此のからくりを看破して了った。……つまり、王党派から軍隊を引き放して孤立させ、機動演習が終了して軍隊が帰還する日、この首府において、突如、武力政略《クーデタ》を行うという肚なのだと洞察しました。政略の動機は、スタンコウィッチ家のエレアーナ王女を廃して、ステファン五世の王甥、イヴァン・チェルトクーツキイを登位させるためです」
心の中の痛恨をおし鎮めようとでもするかのように、やや長い間瞑目したのち、突然、若々しい、熱情的な口調になって、
「そこで、われわれは、機先を制した。……ステファン五世の不例を口実にして、機動演習の延期を命令し同時に軍司令部と参謀本部の方略的乖離を計画して、これに成功しました。敵側にとってこれは、非常な打撃だったのです。……われわれは、第一撃に成功した。しかし、当然あるべき第二撃を行わなかった。紛擾をある程度でとどめて置きたい、微温的な感情が、それを躊躇させたのです。われわれが二度目の攻撃的攻撃に移ろうかどうかと気迷いしているうちに、敵は新たな“|切り返し《リポスト》”の手を考え出した。ステファン五世急逝の報知でエレアーナ王女殿下がマナイールに到着された日、一士官を使嗾して王女の自動車に発砲させました。不幸なことには、それが、参謀本部に隷属するいわゆる、われわれの一味だった。……ポチョムキンはそれを口実にして、臨終の際に作成された勅令をふりかざし、軍令部が独裁権《イニシアチヴ》をとって、即時に戒厳令を実施してしまいました」
そう言って、おだやかな諦観の微笑を浮べながら、
「そして、これが、われわれの、哀れな姿です」
と呟いた。
竜太郎は、一語もさし挾まずに聞いていた。バルカンの国民的性格のなかに、どんな小さな事柄でも、陰謀と闘争のかたちで表現せずにいられない運命的なものがあることを、つくづくと感ぜずにはいられなかった。老人の、寛容な態度や率直な熱情にかかわらず、気質的な弱さには同情する気持になれなかった。
竜太郎が、たずねた。
「それで、エレアーナ王女殿下は?」
竜太郎には、もうその返事が、わかっていた。心の中には、もう、一種、自若としたものが出来ていた。
老人は、やるせないまでに衰えた声で、ひくくこたえた。
「おいたわしいことです」
長い沈黙が[#「沈黙が」は底本では「沈駄が」]、つづいた。
薄光りのする夜の海を眺めながら、ただひとり、わびしげに、涙で頬をぬらしていた少女の俤が竜太郎の心のうえにほのぼのと浮びあがってきた。
エレアーナ王女はあの時すでに、今日のこの悲劇的結末をはっきりと知っていたにちがいない。その遣る瀬ない涙の意味を、竜太郎は察しることが出来なかった。
今迄飽き飽きするほど見馴れた、女性の生理的な感傷だと、頭からきめてかかって、ふりかえって見ようとはしなかった。
(せめて、優しい言葉でもかけることか、まるで、平手打ちでも喰わせるような真似をした)
どんなに悔んでも悔み足りないような気持だった。思いがけない偶然で、今日、河沿いの街で、あの夜の純情と誠実に、いささかながら酬いることが出来たことがせめてもの心やりだった。老人が、急に、口を切った。
「とつぜんですが、私を紹介させていただきます」
苦味のある微笑を唇のはしに浮べながら、
「じつは、かくいう私が前の陸軍大臣イゴール・アウレスキーなのです」
竜太郎は、うすうす察していた。仰向けに寝たまま、慇懃に目礼をかえした。
「私は、志村竜太郎。……仏国文学士」
「短い御交際でした」
アウレスキーが、右手を差し出した。竜太郎は、しっかりと、それを握った。
「ほんとに、短い御交際でした」
長い廊下の端のほうに、ぼんやりとした払暁の乳白色が流れこんできた。どこか遠いところで、急調子に小太鼓《タンブール》[#ルビの「タンブール」は底本では「タンブーレ」]を打つ音がしていた。
廊下の反対
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