き、突然、後頭部に眼の眩むようなひどい衝動を受け、それっきり、何もわからなくなってしまった。
 頭の痛みは、いまも、そこからくるらしかった。突き刺すような疼痛をこらえながら、そろそろと手を上げて、指で後頭部にさわると、指先にヌルッとしたものが触った。藁が何かじめじめしているのは、じぶんの頭から流れ出した血で濡れているのだった。
(頭の傷など、どうだっていいが)
 何か大きな手で、心臓をひと掴みにされたような衝動がきた。身体じゅうの血が一斉に心臓へ向って逆流した。
(それにしても、エレアーナ王女はどうなったろう)
 肘から血を滴らし、紙のように白くなった王女の顔が、悪夢のように網膜にまつわりつく。映画の大写しのように、突然、顔だけになったり、石鹸玉のようによろめいたりする。竜太郎と、ふと顔を合したときの、あのたとえようのない悲しげな眼差。そのくせ、どこか諦めきったような静謐な色を浮べながら、目礼でもするかのような、ほのかな眼使いをした。
(王女も、この地下牢のどこかにいるのではなかろうか)
 思いもかけなかった愉悦の感情が、春の水のように、暖かく心をひたし始めた。
(じぶんのすぐ側に、あの夜の少女がいる)
 ゆくりなく、かりそめの契りをしてから、どのような思いで、そのひとの姿を追い求めていたことであったろう。巴里での、あの、身も細るような奔走と感傷。はるばるとこの荒々しいバルカンの風土の中にやって来る途中の灼けつくような物思い。……そして、いま、冷湿な砲台監獄の壁をへだてて、その人と隣り合せている。――なんという運命の無邪気な厚意。
 しかし、これも、瞬時のときだった。
 竜太郎は、すぐこの感情を恥じ、心の中で、赤面した。
 竜太郎は、口早に老人に、たずねた。
「あなたは、仏蘭西人ですか」
 老人は、誇らしげに答えた。
「いや、リストリア人です」
「あなたは、ご存じでないでしょうか。王女エレアーナは、いま、どうしていらっしゃいますか」
 老人は、心の痛苦に耐えるといったふうに、眼を閉じた。
「ここにいるわれわれの皆が、憂慮《きずか》っているのは、ただひとつ、そのことなのです。……しかし、あなたは、どうしてそんなことを……」
 柔和にたれ下っていた瞼を急におし上げ、肚の底まで見とおすような鋭い眼差で、竜太郎の眼を見かえした。
「あなたの国籍は?」
 この半生に、まだ一度も感じなかったような、たとえようもない誇らしさと、矜持と、優越を感じながら、竜太郎が、こたえた。
「私は日本人です!」
 老人は、口の中で、ほう、というような短い驚嘆の叫びを上げてから、
「その、日本人のあなたが、どうして、こんなところへ……」
 竜太郎は、エレアーナ姫と偶然に南仏の海岸で知り合いになったことを話し、たいへん思い出の深いお交際だったので、戴冠式の晴れの行列を見物しようとしてやって来たこと。今日、河沿いの街で、王女が灰色の外套を着た男たちに引き立てられてゆくところを見て、われを忘れて、その男たちを打倒したまでのことを語った。
 ふと、眼を上げて見ると、いつの間にか、じぶんの周囲に人垣ができていた。杞憂と不安と混ぜ合せたような幾つかの眼が、瞬きもせずに竜太郎を見おろしていた。やがて、そこここに口早やな囁きが起った。いまの竜太郎の話を相手に通訳してやっているのだった。圧しつけたような呻き声や嗟歎の声が、波のようにその人垣を揺り動かした。
 穹窿の柱のあたりで、啜り泣くような祈祷の声が起った。
「|神よ願わくば王女を助け給え《ヰタ・レジナ・ヂイ・アメント》」
 五人ばかりの人が跪いて祈っていた。
 ほかの人たちが次ぎつぎにそのほうへ歩いて行って、祈りの度に加わった。そして、その後で、深い静寂が来た。虚無のように深い沈黙だった。
 老人は、額に手をあてて黙然と俯向いていたが、ややしばらくののち、静かに顔をあげた。
「われわれは、失敗しました。主要な原因は、われわれが信念を欠いていたという一言につきると思う。われわれの同志のなかに、一種の自己満足からくる、眼に見えぬ微妙な対立があった。最もいけないのはわれわれ自身、それに気がついて居なかったということです。われわれ、つまり、王党派《ロワイヤリスト》は、いつの間にか、個人主義に染色され、ついで、意志細胞内に分裂が起り、役にも立たぬ反省となまぬるい人道主義のなかで足ぶみをしているうちに、とうとう、時機を失してしまったのです」といって、ちょっと言葉を切り、
「この国は一四一二年以来、五世紀にわたってスタンコウィッチ家が統治していますが、この家にはいつも男児がないので女帝が登位して、しかるべき家系から女婿を迎えることになっています。ところで、一九一七年の十七日に、アン女王殿下が落馬の負傷で薨去されましたが、当時エレアーナ
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