新聞売台でロンドン・タイムスやニューヨーク・ヘラルドを買って、街路樹の蔭のベンチに腰をおろした。
あわただしく頁をかえして、近東版のある場所を探し出すと、七八種もあるその新聞のいずれもが、一箇所ずつ丁寧に切り抜かれていた。まさに、手も足も出ない感じだった。不吉な想念がひしひしと胸に迫って、いても立ってもいられぬような焦躁を感じる。といって、どうすることも出来ない。味気なく煙草をくゆらして、わずかに紛らわすほかはなかった。
ちょうど、その時、真向いの家の二階の窓にチラと人影がさしたと思うと、窓硝子の割れるけたたましい音がし、絹を裂くような叫び声と共に、破れた窓硝子の穴から、白い細い手が、空をかい探るように、ニュッと二本突き出された。が、それも瞬時のことで、幻のように白い手は消え、そのかわりに、今度は、荒々しい四五人の男の怒声が聞えてきた。
竜太郎は、ベンチから跳ね上ると、加勢でも求めるというふうに、反射的にすばやく道路の右左を眺めた。河沿いの長い道路には、ただひとつの人影もなかった。
怒声と鋭い女の叫び声は、それから暫くつづいていたが、突然、劈くような一発の銃声が響きわたり、それなりどちらの声も聞えなくなってしまった。
竜太郎が、息をつめながら、瞬きもせずに二階の窓を見上げていると、間もなく、入口の扉が手荒に内側から押し開けられ、空色の服を着た年若い娘が灰色の外套を着た三人の男に手をとられながら、低く首を垂れてよろめき出した。服の衿元は無残にひき裂かれ、じかに白い肩があらわれていた。垂れさがった右手の肘のところから手の甲へ、生々しい血が縦に筋をひき、指の股までいって、そこからポタポタと舗石の上に滴り落ちた。
灰色の男たちは、一斉に竜太郎のほうへ振りかえったのち、左右からその娘を抱き上げるようにしながら、歩き出した。若い娘は、すっかり血の気をなくし、雲を踏むような足どりで二三歩歩いたが、舗道の端で石に躓いて、仰向けざまに倒れかかった。
その顔!
あの夜の少女……、エレアーナ王女の、その、面差だった!
何を思慮する暇もなかった。ひと飛びに車道をはね越え、手近の男の肩を掴むと、右手の拳が、したたかその顎を突き上げていた。その男は後さがりに二三歩よろめいてゆき、そこで踏み止まると、ほかの二人と鋭い断節音で、叫びかわしながら、猛然と竜太郎の方へ殺到してきた。
竜太郎は、真先に来たのを体当りで押しころがしておいて、二番目の、見上げるような大男の剣帯をギュッとひっ掴んだ。跳腰が見事にきまって、靴底を空へ向け、両足で孤をかきながら、車道の方へ落ちていった。
竜太郎は、精悍な表情で、ピッタリと石壁に背をつけ、ゆっくりとペン・ナイフの刃を起していた。
十
竜太郎は、悪臭のする、じとじとと湿った敷藁のうえで、ボンヤリと眼を開いた。灰色の軍用混凝土《シマン・ダルメ》で塗りかためられた穹窿《アーチ》形の天井が低く垂れさがり、やや隔ったところで、裸の電灯がひとつ冷酷な光を投げていた。ムッとするような体臭と人いきれと、長い廊下の方から来る、地下室に特有な冷湿な風と馬尿の匂いが複雑に混淆して、強く鼻孔を刺戟した。
ガランとした部屋の中には二十人ばかりの人がいる。穹窿の太い柱に背をもたせて撫然としているものもあれば、リズミカルな歩調で壁にそって歩きまわっているものもある。円座になった七八人の一団。腕を組合せて立っている二人。その奥の人影は朦朧と影のようにゆらめいていた。しめやかとも言えるような空気がこの広い場所を領し、廊下を振子のように往復する重い靴音だけが、浮き上るように響いていた。天井が陰気な谺をかえした。
竜太郎は、藁の上に片肘を立てようとしたが、右腕も左腕も全然用をなさなくなっているのに気がついた。両腕ばかりではない、肘を起そうとした途端に、骨を刻むような鋭い疼痛がきた。頭が割れるように痛み、咽喉はひりつくような激しい渇きをおぼえた。
思わず、呻き声をあげた。
六十ばかりの寛容な面持をした白髪の老人が、寄って来て、無言のまま竜太郎の枕もとに坐った。こうして、坐っていてやりさえすれば、相手を慰めることができると思っているふうだった。竜太郎には、すぐ、その心が通じた。
「どうぞ、水を」
老人は、無言のまま首を振った。
竜太郎は、たずねた。
「ここは、どこです」
老人は美しい抑揚のある仏蘭西語でこたえた。
「マリッツァ砲台監獄の地下牢です」
ぼんやりと、記憶が甦ってきた。
じぶんのペン・ナイフが浅黒い顔をした男の頬を斜めに斬り裂き、おさえた指の股からあふれるように血が噴き出し、ゆるゆると袖口の方へ流れ込んでいたことが妙に鮮かに残っていた。ひと跳躍して、街路樹に背をもたせて喘いでいるやつへ飛びかかろうとしたと
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