、雨雲の腹を撫でながら、中空で交叉したり、離れたりしている。
フォードの古いタキシーが横づけになった。荷担夫《ポルトゥール》は、鞄をタキシーの中へ投げ入れて、手荒に扉をしめると、
「ホテル・ガリッツィヤ」
と、叫んだ。運転手の隣りに鉄兜をかぶった兵士が一人、銃剣のついた銃を股の間にはさんで、石像のように坐っていた。自動車は、停車場の前のひろい通りをのろのろと走り出した。道路の向うから、遠雷の轟くような音が近づいてくる。自動車は急停車すると、あわてふためいたように前灯《ファール》を消した。
竜太郎の自動車のそばを、小山のようなタンクが、耳も痴いるような地響きをたてながら、まるで、天からでも繰り出してくるように、いくつも、いくつも、通りすぎて行った。――タンクと装甲自動車の長い列。それを、騎兵の一隊が追い抜いて行った。ホテル・ガリッツィヤは、維納《ウインナ》風の安手な金箔をいたるところにくっつけた古い建物だった。
廿日鼠のような顔をした支配人らしいのへ、竜太郎は、低い声で、たずねた。
「この国で、いったい、何が始まってるんです」
廿日鼠は、すばやい眼差しで、ぐるりとロビイの中を見廻してから、ルーマニヤ語で、囁くように答えた。
「政変《ポリーチカ》!」
竜太郎の血管の中で、熱い血が、動悸をうつ。騒擾か革命か? 現実に竜太郎が目賭した範囲だけでも、それは容易ならぬ風貌を示していた。先王ステファン五世の薨去の間もなく起こりうる政変といえば、いうまでもなくエレアーナ王女の登位を主題《テーマ》にしたものに相違ない。
竜太郎は、たずねた。
「……それで、……エレアーナ王女殿下は?」どうしても、ひと息では言えなかった。声が慄えていることが、じぶんでも、わかった。廿日鼠は、たまげたような眼付で、瞬間、竜太郎の顔をながめたのち、あわてて書記台の上に顔をふせると、呻くような声で、いった。
「存じませんですよ。……どうして、手前などが、そんなことを」
竜太郎の部屋は、運河に臨んだ二階の端にあった。天井の壁に、漆喰細工のキューピッドがついていて、愚鈍な顔をして下を見おろしていた。翼の金箔が剥げ、その上に点々と蠅の糞がついていた。
竜太郎は、ネクタイも解かずに、長い間、じっと寝台に腰をおろしていた。それから、上衣の内懐からそろそろと一葉の写真を取り出して、つくづく眺め入る。
エレアーナ王女は、白い夏の装いで、大理石の広い階段の第一階に、寛濶な面もちで立っている。
竜太郎は、指の先で、転くそこここと写真にさわりながら、こんなふうに、呟く。
「君は、王女などでなければよかったんだ。……あの夜、ホテルの土壇で、海に向って泣いていたわけが、今こそ、うすうすわかるような気がする。……何か、さまざまと苦しいことがあるのにちがいない。……僕はこうして、君の写真を眺めてためいきをついているだけで、どうしてあげることも出来ないが、どうか、あまり不幸にならないように、どんなに不幸になっても、せめて、生きてだけはいてくれたまえ」
どんなふうに祈るのか、その術を知らないのが情けなかった。そのくせ、いつの間にか、絨氈の上に膝をついて、
「南無観世音、南無観世音……」
と、ただそれだけのことを、いつまでも繰り返していた。
九
夜明けに近いころ、遠くで、さかんな機関銃の音がしていた。単音符を打つような、鋭い、そのくせ陰性な音を、竜太郎は、浅い夢のなかで聞いていた。
もう、十時を過ぎていたが、窓の外は、払暁前のような曖昧なようすをしていた。運河の河岸に片寄せられた浚渫《しゅんせつ》船の赤錆びたクレーンの上に、鴎が二三羽とまっている。暗澹たる黒い空のなかでそれが、二つの白い点のように鮮かに浮び上っている。河には動きまわる一艘の船もなかった。
澱んだような鉛色の水が、小波ひとつ立てずにのたりと流れ、サロニカ風の奇妙な破風を持った、古びた家々がしずかに影をおとしている。そのなかに、息づまる擾乱を孕んだような不気味な静寂さだった。
竜太郎は、いま、この首府に起こりかかっている騒擾の真相を読みとろうとでもするかのように、鋭い眼差しで、この陰険な風景を眺めていた。
どんな手段をつくしても、エレアーナ王女の消息を尋ねなければならない。その他のことは、どうでもよかった。ただ、王女の安否だけを……。
急いで、服に着替えた。バンドを締める手に、ミリミリと力がはいった。
「廻りっくどいことはいらない。査証を受けに行ったついでに、軍司令部へじかにぶつかってみてやれ。それでいけなければ、文部次官のところで……」
部屋を出ようとして、習慣的に、左の手が胸の衣嚢のところへいった。
(そうそう、昨夜枕もとの夜卓《ターブル・ド・ニュイ》の上へ立てかけておいたんだっけ)
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