歩とは進ませまいが、しかし、おれの精神の飛躍は阻むことは出来ない。おれの肉体はぬかるみの舗石の上へ叩きつけられても、おれの精神は、一挙に無辺際の光明世界へ飛翔する。おれは、完成されて、死ぬ」

    八

 汽車が停って、僅かばかりの人が降りて行った。
 窓をおし開けて見ると、昇降場の磨硝子の円蓋《ドーム》には水蒸気が白くたち罩め、その天井の高いところから、絶えず滴がたれ落ちていた。大気は湿って、寒かった。竜太郎は、思わず、身慄いした。
 昇降場の電灯は、なぜか、ほとんど全部消灯され、ところどころに、一つ二つ点っているのが、霧の中でぼんやりした光暈《ハロオ》をかいていた。線路も、跨橋も、指示標《シグナル》も、給水槽《タンク》も朦朧たる霧の面※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]《ヤシマク》をつけ、一種、陰険なようすで、佇んでいた。
 跨橋の上を、鉄兜をつけた一隊の兵士が行進し、そのあとに、砲車の弾薬車がつづいた。昇降場に向いた待合室の扉は全部開けはなされ、その奥で、休止している兵士と機関銃が見えた。どっしりとした三梃のチェッコ機関銃はチカチカと鋼鉄の肌を光らせ、列車の方へ黒い銃口をむけていた。
 手提ランプをさげた、若い駅員がひとり車室に入ってきて、竜太郎に、なにか言いかける。なにを言ってるのか、一言もわからない。
 駅員は、手真似でやりだす。鞄を持って、じぶんについてこいと言ってるらしかった。
 鞄をさげて待合室の中へはいって行くと、構内食堂《ビュッフェ》の長い食卓のむこうに、灰色の外套を着た、士官らしい男が三人坐っていて、厳しい眼差しで竜太郎を迎えた。
 構内食堂の中には、ただならぬ緊迫した空気がただよっていた。奥の丸卓では、電信兵がせわしそうに電信機の鍵をうちつづけ、重い靴音を響かせながら、伝令の兵士が絶えまなく出たり入ったりしていた。廊下の壁ぎわには、鉄兜に顎緒をかけた一小隊ばかりの兵士が、横列になって並んでいた。誰か身動きするたびごとに、銃剣がドキッと光った。竜太郎は、ここで、なにが起ろうとしているのか、理解することができなかった。国境駅の検閲にしては、いささか、物々しすぎるおもむきだった。
 竜太郎は、旅行免状《パスポート》を差し出した。コレンコ風の、短い口髭を生やした、年嵩の士官は、旅行免状をチラと一瞥しただけでおし返し、近東のつよい訛のある英語で、たずねた。
「どういう、用件で?」
 竜太郎は答えなかった。今度は、仏蘭西語でたずねた。
「リストリアへ、……どういう、用向きで」
 鋭い眼が、まともに竜太郎の眼を瞶めていた。質問というより、訊問というのにちかかった。
「語学の勉強に」
 この返答は、たしかに士官の度胆を抜いたらしかった。が、依然として辛辣な表情をかえずに、
「語学の勉強? |確実に《エギザクトリィ》?」
「|確実に《アブソリューマン》」
「語学の勉強には、少々、不適当な時期ですな」
 士官の表情に、露骨に、不審をあらわしていた。
「マナイールまでおいでですか」
 竜太郎の背筋を、小さな戦慄が走った。
 この国境の近くで、何か重大なことが起りかけている。じぶんの返答ひとつで、予測し難い危険が身に迫るらしかった。咄嗟に、どう答えていいのか、判断がつかなかった。
 ふと思いついて、ダンピエール先生からもらった紹介状をとり出して、食卓の上へおいた。「今度の主要な用件は、リストリアの文部次官に会うことなのですが……」
 士官は、紹介状を手にとって、仔細に眺めはじめた。紹介状には、学士院会員ギュスタフ・ダンピエールと文部参事官ポール・ジャルウの二人の名前になっていた。
 士官の表情のなかから、ふと、辛辣な色が消えた。
「よろしい。滞在日数は?」
「いまのところ、まだ未定です」
「毎朝陸軍司令部へ出頭して査証《ヴィザ》を受けて下さい」
 竜太郎は、車室へかえった。汽車はゆるゆると動き出した。
 陸軍司令部……。ただならぬ感情が、じかに、胸にせまった。
(いったい何が起ったんだろう? )
 ※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]たけたエレアーナ王女が、チラと瞼の裏をよぎった。
 列車は、短い隧道をいくつもくぐりぬけ、大きな停車場に走り込んだ。
 マナイール!
 立ち上りかけて、竜太郎は、よろめいた。気の遠くなるような一瞬だった。
 停車場の前の広場は、雨気をおびた雲の下で、黒々としずまりかえっていた。一人の人影もなかった。
 ぼんやりとした遠近図《ペリスペクチフ》をかく家並の線。どの窓も、みな閉され、ちらとも灯火が洩れなかった。この首府は、喪に服しているような、深い沈黙のなかに沈み込んでいた。
 運河をへだてた、やや近い森のうしろから、サーチライトの蒼白い光芒が、三条ばかり横ざまに走り出し
前へ 次へ
全25ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング