(あの少女は、おれのものだ。……たとえ王女であろうと、なんであろうと……)
あの夜、竜太郎の胸の中で、少女が、叫んだ。
「あたしは、もう、あなたのものよ。……あなただけのもの。……どうぞ、いつまでもかわらないと、誓って、ちょうだい」
絶え入るように、いくども、いくども、くりかえす。
しかし、明日になれば、地中海の碧い水のうえに、脳漿を撒きちらして自殺するじぶんなのだから、どのような誓いも無益である。黙らせるために、自分の唇で少女の口をふさいでしまった。やはり、どこか、心がしらじらとしていて、調子を合せるほど無邪気にはなれなかった。そんなことは、どうでもよかった。
自殺するはずの、じぶんが、それを実行し得なかったのは、思いがけない急転換《クウ・ド・チアトル》のせいである。もう会えないかもしれないという、その思いが恋情を駆りたてた。……しかし、じぶんが身も※[#「宀/婁」、124−下−6]《やつ》れるまで、あの少女を恋いわたるようになったのは、ただそれだけのためであろうか。じぶんの心は、はっきりと(いな!)とこたえる。少女の誠実と無垢な愛が、じぶんの心情を刺し貫いたためである。へなちょこなじぶんの根性は、純真な愛の平手で横ッ面をぴしゃりとやられ、深いところで昏睡していた本心が、びっくりして眼をさまして、おやッ、と思った。こんな無垢な愛情には終生、二度とめぐりあうことはないぞ。いつのまにかこちらも、命をかける気になっていた。
ところが、ソルボンヌ大学の教授室で、あの夜の少女がリストリアの王女だとわかると、持ちまえのへなへな[#「へなへな」に傍点]心は、一夜の気まぐれに弄ばれたのだと頭からきめ込んでしまった。それならそれで諦めでもすることか、不甲斐ない恋情で身をやつらせ、未練がましく悶えたり恨んだりしていた。
(あたしは、あなただけのものよ)
たとえ、それが恍惚のときの狂熱の叫びであろうと有頂天の間の囈言《うわごと》であろうと、かりにも、じぶんの耳が聞いたその言葉を、なぜ、そのままに信じられないのか。そればかりか、相手が王女だと聞くと、これはいけないと、尻込みしてしまった不甲斐なさはなんという確信のなさ。なんという熱情の乏しさ。
日本にいた頃の竜太郎は、蕩児は蕩児なりに、多少ずばぬけたところを持っていた。気概も気魄もある男だった。
欧羅巴を放浪し始めてから十五年、軽佻浅膚な社交界を泳ぎまわっているうちに、いつのまにかその習俗に茶毒《とどく》され、日本から受け継いだ、男としての気概などは跡かたもなくなって、風船玉のような尻腰のない、へなちょこな魂ができあがった。いっぽう、そういう生活に対する鋭い懐疑と、絶えまない反省がある。放蕩と反省と懐疑の、役にも立たぬこの三つの相剋のなかで、竜太郎それ自身まですっかり見失ってしまった。気概どころか、意志もなければ信念もない。……人間のぬけがら。そういう、へなへなな魂が、じぶんの女を、せめて、街路樹の蔭からでもひと目見てこようなどという、しみったれたことを思いつかせるのである。
ちょうど、天の啓示でも受けたように、薄目をあけていた昔の心が、いっぺんに覚醒する。
竜太郎は、うめくように、呟いた。
「しみったれた真似はよせ! なによりも、じぶんらしく、日本人らしく、多少、気概のある行動をして見せろ。ひと目見たら死ぬにしても、そうでなくては、浮ばれないぞ」
じぶんにとっては、あの少女は、ひと夜さ同じ夢をみたひとりの女にすぎない。むこうが王女なら、こちらも、日本の男いっぴき、なにもコソコソするにはあたらない。正面きって、大威張りで会いに行こうじゃないか。
(どうぞ、いつまでも、変らないで、ちょうだい)
有頂天な囈言だなどとは思うまい。心情の美しく高い飛躍にとって、こういうケチな反省ぐらい邪魔なものはない。そのままに信じて、会いに行こう。
気概はどうあろうと、こちらは一介の国際的ルンペン。一国の王女と結婚しようなどという無邪気なことは考えまい。もっと高く、もっと美しく、断末魔の間一髪に、この恋愛を完成させよう。
澎湃《ほうはい》たる熱情の波にゆられながら、竜太郎は叫ぶように、いった。
「よし、戴冠式の行列を擁してやろう!」
舗石をおれの胸の血で染めて、日本人はどんな恋愛の仕方をするものか見物させてやろう。少女の足下で胸を射貫かれて死んだら、明日死ぬと誓ったこともはたされるわけだし、虚偽だらけなじぶんの半生の最後に、ただ一度、真実の朱点を打って死にたいという望みもかなうわけである。そして、そこに高く美しい心情の完成がある。じぶんの人生に於ける最後の大祝宴。心の戴冠式だ。
「戴冠式の馬車に向って、まっ直ぐに歩いて行こう。二つの戴冠式の合歓。……習俗の弾丸がおれの胸を射貫き、おそらく、五
前へ
次へ
全25ページ中13ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング