ちにどうにも耐えられなくなって、錯乱したように叫び出した。
「……行こう。……あの薄情な恋人の戴冠式の行列を見に、マナイールへ行こう!……街路樹の蔭からでも、よそながら、ひと眼見てこよう。たぶん、それで思いが晴れるだろうからな」
 竜太郎は書机のところへ駈けて行って汽車の時間表を探し出し、あわただしく頁をひるがえして「経伊特急《サンプロン・オリアン・エクスプレス》」のところをひろげると、
「……ヴァルローブ……ロオザンヌ……ドモドツノラ……ミラノ……トリエスト……ソフィア……マナイール……」と、指で辿りはじめた。
 そして、窓のほうへ立って行って、夕暮の巴里の屋根屋根を眺めていた。何も見ているわけではなかった。竜太郎は泣いていた。

 20, 35――Simpron−Orien−Expresse.
 里昂停車場《ギャアル・ド・リヨン》の六番の昇降場《ケエ》には、いつになく夥だしい人波が群れていた。それも、老人や子供たちの姿は見えなくて、どれもこれも陽焼した、ひと眼で軍人だと知れるような、体格のいい青年たちばかりで、みなひどく切迫した顔つきをして、断切音の多い近東の言葉で、互いに何か叫び交わしていた。
 発車の間ぎわになって、ダンピエール先生が、リストリアの文部次官宛の紹介状を持って駆けつけて来てくれた。ひどく息を切らしながら、竜太郎の手を握ると、青年のような若々しい声で、叫んだ。
「自白したまえ、自白したまえ。君は、リストリア語でなく、あの女王の調査に行くのではないのかね。……しかし、ま、どっちだってかまわない。いずれにしろ、この紹介状はたぶん役に立つだろう」
 竜太郎は、心の深いこの老人に無言のまま頭をさげて、感謝の意を表した。
 汽車が出て行った。
 いつかのあの敏感そうな少年が昇降場の柱の蔭から、それをジッと眺めていたことを、竜太郎は知っていたろうか。

    七

 車室には、うす暗い電灯がひとつだけ点り、ムッとするように粗悪な煙草が濠々とたちこめていた。
 床の上には腸詰の皮や、果物の芯や、唾や、煙草の吸殻などが、いたるところに飛び散ってい、汽車が揺れるたびに、そこからひどい匂いがきた。
 入口に近い座席で、剽悍な顔つきをした三人の青年がブダ語らしい言葉で激論を闘わしている。いずれも血相を変え、今にも射ち合いにでもなりそうなけしきだった。荒々しいバルカンの気質の中へはるばるとやってきたことをつくづくと感じた。
 空は低く、重苦しく、物悲し気だった。
 乳白色の濃い霧の間から、冷涼たるコンスタンツァの原野の景色が、時々、ぼんやりとよろめき出してはまた、漠々とその中へ沈んでゆく。――うち挫がれたような泥楊の低い列。霧に濡れながら身を寄せ合っているわずかばかりの羊の群。赤土の裸の丘と、嶢※[#「山+角」、123−下−5]《ぎょうかく》たる岩地。
 陽が暮れかけてきて、天地の間の沈鬱なようすは一層ひどくなった。うち沈み、歎き、悼み、一瞥にさえ心の傷む風景だった。
 竜太郎は、車窓の窓掛をひき、固い隔壁に凭れて眼をとじる。
 バルカンの沈鬱な風景も、荒々しい気質も、猥雑な乗客の群も、竜太郎になんの感じもひき起こし得なかった。巴里の里昂停車場を発ってから、この三日の長い旅の間、竜太郎の思いは、たったひとつのことに凝集されていた。それは、(戴冠式の馬車に向って、真直ぐに歩いて行こう)ということである。
 ……白い鳥毛の扁帽を冠った前駆の侍僮が、銀の長喇叭《トロンペット》を吹いて通りすぎる。……ピカピカ光る胸甲をつけた竜騎兵の一隊。……十二人の楯持《エキュイエール》が二列になって徒歩でつづく。王室の紋章を金糸で刺繍した美々しい陣羽織《レ・タバール》組。……槍の穂先をきらめかす儀仗の小隊。それから、いよいよ戴冠式のお馬車がやってくる。六頭の白馬に輓かせた金の馬車の中に、あの夜の少女がもの佗びた面もちで乗っている。
 ……一人の若い東洋人が、群集と警衛の憲兵の人垣の間から飛び出し、ゆっくりと馬車に向って歩いてゆく。……たぶん、五六歩。おそらく、それより多くはあるまい。……一発の銃声がひびきわたり、儀仗兵の拳銃の弾丸が、その胸の真ん中を射ぬく。……若い東洋人は、なんともつかぬ微笑をうかべながら、一瞬馬車の中の王女の顔を見つめ、ゆるゆると舗石の上に崩れ落ちると、それっきり動かなくなってしまう……五色の切紙が背の上におびただしく降り積み、テープの切れっぱしが、ヒラヒラといくつも首のあたりにまつわりつく。ちょうど祝宴の席で酔いつぶれてしまった、幸福な花婿のようにも見えるのである。……
 巴里を発つ時は、街路樹の蔭からなりと、ひと眼見てこようと思っていた。ところで、汽車が動き出すと、とつぜん、思いがけない心の作用が、その決心を変えてしまった。

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