ながら、自分の最後の瞬間を味わうために、眼をとじる。
岩が蒼黝い影をおとす海。……拳銃の上にチカチカとはねかえる明るい陽の光。……煙のように空に噴きつける血しぶき。……それから……。
竜太郎は孤児だった。父は巨額の財産を残して早く死に、竜太郎は幼いうちに慈悲も憐憫もない冷淡な金の中に、たったひとり取り残されることになった。
窮極のところ、金の圏囲内で行われることは、何によらず、そう大して面白味のあるものではなく、放蕩にしろ濫費にしろ、やるだけやって見ると、あとには手のつけられない虚無感と倦怠が残るだけのことである。
愛情……は、人間の愛情も厚意も、竜太郎のような境遇の人間にとっては、そのまま通用しない。煤色をした懐疑を深めるのに役立つだけのことである。今迄のさまざまな経験で竜太郎は、はっきりとそれを是認した。
竜太郎は、無味索漠たる空々しい人生の中で、誰れからも愛されるあてもなく、誰れを愛する自信もなく、長い間ひとりぼっちで生きて来た。
だいたいに於て、こういうのを不幸な魂と言って差支えないのであろう。こういう境遇は竜太郎自身がつくり出したのではなく、知らぬ間に、嵌《は》め絵のように嵌め込まれたのに過ぎないのだとすれば、たぶん、神様も憐れと思われるにちがいない。
竜太郎は人生に対して何の興味もなければ、何の期待もない。今となっては、生きている一日一日が、それ自体耐えられない重荷になって来た。もう、これ以上辛抱してやる必要はないと覚悟をきめたのである。……
竜太郎は、いつもの自分の揺椅子《ロッキングチェヤ》へ行こうと思って、食堂の椅子から立ち上った。
それは、海沿いの長い土壇《テラッス》の端にただ一脚だけ離れて置かれ、大きな竜舌蘭《アローエズ》の鉢植が樹牆のようにその周りを取巻いていて、ちょうど鴨池の伏せ場のようになっている。竜太郎は、いつも、たった一人でこの隠れ場に逃げ込み、揺椅子の上で身体を揺すりながら、誰からも邪魔をされることなく、沈思したり、海を眺めたりして暮らしていた。
竜太郎が食堂を出て、広間の入口まで来ると、ふと、何とも言えぬほのかな香がその辺に漂っているのを感じた。
広間の窓はみな閉じられているから、風が運んで来た花の香ではない。
そんな単純な匂いではなかった。なにか、微妙に複合した、高貴なそのくせ、からみつくようなところもある、たとえば、蒸溜器の中で調合された媚薬の香とでもいったような、言いあらわしようもないふくよかな香気で、それが、水脈のようにあとをひきながら、ほのぼのと広間の出口のほうへ流れている。
竜太郎は、われともなく心をときめかして、かぐわしいその水脈に乗って、吸い寄せられるようにそのほうへ歩いて行った。
土壇《テラッス》へ出てゆくと、片かげの薄闇の中に、竜太郎の揺椅子《ロッキングチェヤ》にひとりの婦人が掛けて、しずかに海を眺めていた。黒檀《こくたん》色の海の上で、船の檣灯《しょうとう》の光が、いくつも重なり合い、ちょうど夜光虫のようにユラユラとゆれている。すこし湿った大気の中に春の息吹のような軽々とした香りが立ち迷っていて、微かな海風が起るたびに、なよなよと竜太郎のほうへ吹きつける。さきほどの微妙な香気は、この婦人からくる匂いだった。
竜太郎は長い間、竜舌蘭《アローエズ》のそばに立ちつくして、気がついてくれるのを待っていたが、いつまでたっても、その婦人は身動きもしない。なにか、深い物思いに沈み込んでいるのらしく、すぐそばに竜太郎が立っていることに、まるっきり気がつかないふうだった。
そのうちに、竜太郎は、どうにも辛抱が出来かねる気持になってきたので、思い切ってそのそばに進みよると、こんふうに[#「こんふうに」はママ]、声をかけた。
「たいへん、失礼ですが……」
婦人は、ビクッと神経的に肩をふるわせて急にこちらへふりかえると、まだ夢から醒めきらぬひとのようなぼんやりした表情で、竜太郎の顔を見あげた。その頬に、涙の痕が光っていた。ようやく二十歳になったくらいの若い娘だった。
なんという、※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《ろう》たけた面ざしであろう。
ブロンドの柔毛のような髪が、すき透るような蒼白い顔のあたりに三鞭酒色《シャンパン》の靄をかけ、その中に吸い込まれてしまうような、深みのある黒い大きな眼のうえで、長い睫毛が重そうにそよいでいる。
なににもまして、驚かれるのは、たとえようもない貴族的な美しい鼻と、均勢のとれた楕円形《オブアール》の顔の輪廓だった。近東の古い家系の中で稀れに見られる『|美の始源《オリジン・ド・ボオテ》』という、あの高貴な顔だちだった。ロオレンスでさえも、このような※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−9
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