つもりだった。
あの嫋やかな手を執り、あの優しい声を聴き、あの夜のようにしっかりと抱き合いながら、その耳へ、
(結婚しようね。死ぬまで、離れなくともすむように)
と、囁やくつもりだった。
ひと言それを言いたいばかり、この長い間、身も痩せるような奔走をつづけて来たのだったが……。しかし……
しかし、もう、諦めなくてはならないのであろう。
※[#始め二重括弧、1−2−54]リストリア王国を統べ給うべき、エレアーナ王女殿下※[#終わり二重括弧、1−2−55]
ところで、こちらは、放蕩と世俗の垢にまみれた、何ひとつ取り得のない一介の国際的ルンペン。愚にもつかぬ厭世家《ペシミスト》。賭博者。
これでは、あまり種属がちがいすぎるようだ。いくらあがいたって、どうにもなるものではない。抱くどころか、傍にだってよれやしない。
とつぜん、思いがけないある思念が電光のように心の隅を掠《かす》めた。
竜太郎は、度を失って、もうすこしで叫び出すところだった。
あの夜、少女がなぜ名を名乗らなかったか、あす自殺するつもりだというと、なぜ、急にあの細い指が絡みついて来たのか、迂濶にも、今になって、竜太郎は初めてその意味を了解した。
明日はもうこの世にいない男だから、それで、ひと夜の気紛れの相手に撰んだのだった。なにしろ、死人に口はないのだから、あと腐れもなかろうし。――なんという抜目のなさ!
(なるほど、そういうわけだったのか)
竜太郎の胸の裏側を、何か冷たいものが吹いて通る。佗びしいとも、やるせないとも言いようのない寒々とした気持だった。
しょせん、戯れにすぎなかったのだ。あの夜の離れて行きかたが、よくそれを表明している。たとえ、わずかばかりでも真実らしい思いがあったら、けして、あんな別れかたはしまい。揺り起して、別れの言葉のひとつぐらいは言うであろう。それを、眠っているのを見すまして、逃げるように行ってしまった。
あの愛らしい唇から、あんなにも優しく呼びかけあんなにもいくども誓った、あのかずかずの言葉は、みな、その場かぎりのざれごと[#「ざれごと」に傍点]だったのだ。
竜太郎は、胸の中で、苦々しく、呟く。
(なにしろ、うまく遊ばれたもんだ)
それはいいが、……それはいいが、これほどの自分のひたむきな熱情や真実が、こんな無残な方法で虐殺されたと思うと、つらかった。
たぶん、魂が痛むというのは、こんな感じをいうのであろう。胸のどこかに孔があき、その創口から、すこしずつ血が流れ出しているような、そんな辛さだった。
ふと、気がついて顔をあげると、ダンピエール先生が、半身をこちらへ捻じ向け、ペンを持ったままで、気遣わしそうな面持でこちらを眺めていた。ヤロスラフ少年は先生のそばで、何かせっせと紙に書きつけていた。
竜太郎が顔をあげたのを見ると、先生は、いつものように屈托のない調子で、
「……すこし、顔色が悪い。気分でも悪いのではないかね。……それとも」
チラと皮肉な微笑をうかべ、
「バルカン半島のような政事的擾乱《フウルウィルスマン・ポリティック》が君にも起こっているのか」
と、いって、大声で笑い出した。
竜太郎はハンカチで額を拭う。ひどい冷汗だった。出来るだけ快活なようすをつくりながら、
「いや、そういうわけではありません。ええと、……大急ぎで、リストリア語とルウマニア語の比較論《コンパレ》を書き上げなくてはならないことになって、……この頃、ずっと寝不足をしているものですから、それで……」
何を言うのか、しどろもどろのていだった。
先生は、すぐ真にうけて、
「それは、たいへんだ。何か要る本があったら遠慮なく持って行きたまえ。……もし、そういう必要があるなら、ヤロスラフ君を貸してあげてもいいよ」
竜太郎は、あわてて手を振った。
「いいえ、それほどのことでもないのです。……すこしばかり参考書を貸していただければ……」
そう言いながら、何気なく先生のとなりへ視線を移すと、瞬きもせずに、竜太郎を瞶めているヤロスラフの眼と出会った。なにか、劇しい敵意を含んだ眼つきだった。
竜太郎は、自分でも何とも判らぬ不快を感じて、ジッとその眼を見返すと、ヤロスラフは、急に眼を伏せて額際まで真赤になり、「どうも失礼しました。……わたくし、日本の方にお眼にかかるのはこれが初めてなんです……」
と、いって、近東人種特有の陰険な微笑を浮べた。どうもそのまま信用しにくいようなところがあった。
「それに、もうひとつ。……どうしてその写真があなたのお手に入ったか、さっきからそれを不審にしていたものですから……」
来るな、と思っていたら、果してそうだった。竜太郎は顔を引き緊めて、
「これは、あるひとから托されたのですが、そのひとの名を申しあげなくて
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