玄関番の小舎は、内部も外部も白塗りの、異国風な建物で、床が磨き込まれて鏡のように光っていた。部屋の央ほどのところに小さな丸い卓があって、その上に、世界中のあらゆる新聞、……ベルグラードやサラエボの夕刊新聞までが帯封をしたまま、堆高く積まれてあった。
どうしたのか、子供はなかなか帰って来ない。竜太郎は、窓のほうへ行って庭を眺めて見たが、人の影さえなかった。
さっきの椅子に帰ろうとしながら煖炉のそばを通るとき、ふと、その上の、銀の額縁にした写真に注意をひかれた。
近づいて、ひと眼見るなり、竜太郎は真青になってしまった。狂人のような眼つきでいつまでもその写真を眺めている。
そのうちに、急に手を伸してそれを取りおろし、素早く裏板をあけて写真を外し、それを衣嚢に押し込むと、その代りに千|法《フラン》の紙幣を一枚そこへ挾み込んだ。
まるで、空巣|覘《ねら》いのようにあたりをうかがいながら、ソロソロと小舎をぬけ出すと、一散に庭を駆け抜け、待たしてあったタクシイに飛び乗って、
「|学生街へ《リュウ・デ・ゼチュジアン》」
と、命じた。
自動車が走り出すと、竜太郎は、むしろ、恭々《うやうや》しくというほどの手つきで、先刻の写真を取り出した。
それは、「あの夜の少女」の写真だった。
どうして竜太郎が、それを見誤るはずがあろう!
この、あえかにも美しい面ざし。すこし悲しげな黒い大きな眼。また、均勢のとれたすんなりとした身体つきにしてからが、まぎれもない、あの夜の娘だった。
たとえようのない深い喜悦の情で顔を輝かせながら、竜太郎は飽かず写真を眺める。これが、現実のこととはどうも思われない。何か夢の中のあわただしい出来事に似ていた。
竜太郎は、そのひとにいうように写真に話しかける。
「ほら、とうとうつかまえたぞ! もう、けっして離さないから。いいかい、もう決して離さない!……それにしても、この巴里で出会うなんて! ほんとうに夢のようだね」
少女は大きな石の階段の第一階に、純白な夏服を着て立っている。その下のほうに重厚な筆蹟で献辞らしいものが二三行ばかり書きつけてあるのだが、竜太郎には一字も読むことが出来ない。どんなことが書いてあるか知りたくなった。
ソルボンヌ大学にダンピエールという東洋語の先生がいる。その先生に読んで貰おうと思いついた。
教授室へ入って行くと、折よくダンピエール先生がそこに居た。
先生は写真を受け取ってその文字を眺めていたが、眼鏡を額のほうへ押しあげながら、竜太郎のほうへふりかえると、
「これは、リストリア語だね。……残念だが、ぼくには読めませんよ。……しかし、大したことはない。リストリアからヤロスラフという若い留学生が一人来ているから、それを呼んで読んで貰おう」
間もなく扉を開いて、十九歳ばかりの痩せた、敏感そうな少年が入って来た。
ヤロスラフは写真を受け取ってチラとその主を一瞥すると、たちまち硬直したようになって、やや長い間、眼を伏せて粛然としていたが、やがて、物静かに、口を切った。
「ここには、こんなふうに書いてあります」
[#ここから3字下げ]
神の御思召あらば、
リストリア王国を統べ給うべき
エレアーナ王女殿下
[#ここで字下げ終わり]
竜太郎の耳のそばで、何かがえらい音で破裂したような気がした。いま、自分の耳が聴いた言葉が、いったい、どういう意味をなすのか、咄嗟に了解することが出来なかった。
「なんです?……どうか、もう、一度」
ヤロスラフは、敬虔なようすで眼を閉じると、祷るような口調で繰りかえした。
「神の御思召あらば、リストリア王国を統べたもうべき、エレアーナ王女殿下……」
「するとあの方が……」
竜太郎の眼を見かえすと、ヤロスラフは一種凛然たる音調で、こたえた。
「王女殿下であられます」
こんどは、はっきりとわかった。
六
(あの夜の少女が王女《プランセス》)
身体中の血が、スーッと脚のほうへ下ってゆくのがわかった。生理的な不快に似たものがムカムカ胸元に突っかけ、ひどい船酔でもしたあとのように、頭の奥のほうが、ぼんやりと霞んで来た。
(おれは、ここで卒倒するかも知れないぞ)
机の端を両手でギュッと掴んで、いっしんに心を鎮めた。
すこし気持が落ちつくと、最初に鋭く頭に来たのは、これアいけない、という感じだった。
(もう、二度とあの小さな手を執ることは出来ない。声をきくことも抱くことも……)
この想いが、たったいま、自分をとりとめなくさせたのだった。
竜太郎は、あの娘に逢ったら、いきなり胸の囲みの中へとりこみ、今迄の、うらみつらみ、うれしさも悲しさも、何もかもいっしょくたに叩きつけ、人形のような、あの脆《もろ》そうなからだを腕の中で押しつぶしてやる
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