出来なかった。クンケルが、いった。
「まいりました」
 竜太郎が、おそるおそる眼をひらく、卓の向う側に、どこか険のある、美しい顔だちの娘が立っていた。
 竜太郎は、力の抜けたような声で、いった。
「このひとではありません」

    五

 竜太郎は、モンマルトルの丘の聖心院《サクレ・クウル》の庭に立って、眼の下の巴里の市街を眺め渡していた。
「巴里」は灰色の雨雲の下に甍々を並べ、はるかその涯は、薄い靄の中に溶け込んでいる。まるで背くらべをしているような屋根・屋根・屋根。ぬき出し、隠れ、押し重なり、眼の届く限りはるばるとひろがっている。
 右手の地平に、水墨のようにうっすらと滲み出しているのはムウドンの丘。左手に黝く見えるのはヴァンセイヌの森であろう。
 廃兵院《アンブアリード》の緑青色の円屋根の上に洩れ陽がさしかけ、エッフェル塔のてっぺんで三色旗がヒラヒラと翻っている。
 竜太郎は、巴里をこんなに広く感じたことは、今迄にただの一度もなかった。この大都市には、三百万の人が住み、七十五万の所帯がある。その中から、どんな方法でたった一人の少女を探し出そうというのか。
 ところで、この大都会の市域の向うには、広い郊外都市《プアンリュウ》がある。その向うには市郡。……その向うには仏蘭西の全土!
 竜太郎は、朝から晩まで、錯乱したように巴里中を駆け廻る。博物館、劇場、喫茶店、映画館、縁日《フォアール》……。人が集りそうなところへはどこへでも出かけて行く。もしや、そこであの娘に不意に出逢うことがあるかと思って。
 二人の鼬鼠の持ち主のところへも、もちろん、出かけて行った。オデオン座の女優のほうは、まるで似ても似つかぬかます[#「かます」に傍点]のように痩せた娘だった。高等内侍《クウルチザンヌ》のほうはいつも笑っているような、仮面《マスク》のようなふしぎな顔をした女だった。……
 竜太郎の衣嚢の中の手帳には、グリュナアルの「顧客名簿《フイシエ・クリアンテール》」から写して来た三十二人の住所と氏名がある。鼬鼠を買った「外国人の部」である。そのうちの十七人は巴里に住んでいた。
 あの次の朝から、竜太郎は、一人ずつ克明に訪問して歩いた。どれもみな「あの夜の少女」ではなかった。あとには、ただ一人だけ残っている。

 マラコウイッチ伯爵夫人 ド・ラ・クール街二二六(二十区)
 もし、それもあてはずれなら、全世界に散らばっているあとの十五人を探すために、長い旅に出かけなくてはならない。――ロンドン、ベルリン、リスボン、マドリッド、ブリュッセル、ニュウヨルク……etc.
 それは、ほとんど不可能に近いことだ。もう、このくらいで、捜すことはあきらめなくてはならないのではないか。
 竜太郎の心の上に、あの少女の俤が、影と光を伴って、また生々と甦ってくる。
 あんなにも美しく、あんなにも優しく、あんなにも心の深かったあの娘。……はじめて女の叫び声をあげたあの唇。ひとの心を吸いとるようなあのふしぎな黒い眼。楊《やなぎ》の枝のようなよく撓《しな》うあの小さな手。……あの娘にもう逢うことが出来ないのかと考えると、そう思っただけでも、頭の中のどこかが狂い出しそうな気がする。
 竜太郎は、両手で顔を蔽うと、喰いしばった歯の間で呻く。
(あきらめない! どんなことがあっても、かならず探し出して見せる。たとえ、世界の涯まで行ってでも……せめて、もう一度だけ! たった、一度だけでいいから!)
 心が激してきて、われともなく立ち上って、巴里の上に両腕を差しのばしながら、叫んだ。
「どこにいるんだ? 君は、いったい、どこにいる?……言ってくれ、よゥ、言ってくれ」
 切ない哀痛の涙が、泉のように眼からあふれ出す。もう、なりもふりもかまっていられなくなって、人通りのはげしい、そこの石段の上にしゃがみ込むと、腕で顔を隠して、大声で泣いた。
 マラコウイッチ伯爵夫人の邸は、ペール・ラシェーズの墓地の裏側にあった。
 大きな鉄門のついた宏壮な邸宅で、城壁のような高い塀が、その周りを取り巻いていた。
 門を入ると、そこは広々とした前庭になっていて、小径のところどころに、ベニス風の小さな泉水盤《フォンテーヌ》が置かれてあった。
 竜太郎は玄関の大扉のそばに垂れ下っている呼鈴の綱を[#「綱を」は底本では「綱をを」]引いて案内を乞うたが、いつまでたっても誰れもやって来ない。邸の内部には人の気配もなく森閑としずまりかえっている。
 本邸の右手の方を見ると、玄関番の小舎が見えるのでその方へ歩いて行って扉を叩くと、内部から八歳ばかりの女の児が出て来た。
「ちょっと、おたずねしたいことがあってお伺いしたのですが、どなたもいらっしゃらないの」
 子供は、すぐ、うなずいて、小舎の裏手のほうへ駆け込んで行った。
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