低く垂れさがった灰色の空から、絶え間なく霧のような氷雨が落ち、丸石の舗石をしっとりと濡らしていた。
 竜太郎の熱意にかかわらず、「銀の喇叭《トロンペット》が三つついた自動車」の捜索は、全く失敗に終ってしまった。
 キャンヌ――ジャン・レ・パン――アンチーブ、とその辺まではどうやら追蹤することが出来たが、その先は皆目手がかりがなかった。一分間に二百台は自動車が通るという、この幹線国道では、「喇叭が三つついた、濃青か黒の自動車」だけでは、どうにもなるものではなかった。アンチーブまで蹤けたと思っているそれさえほんとうに、少女が乗っていた自動車なのかどうか、甚だ不確かな話だった。
 それでも、竜太郎は希望を捨てなかった。
「|夕刊ニース《ル・ニソア》」と「馬耳塞朝刊《マルセイユ》」に大きな新聞広告を出して、三日の間待っていたが、ただの一人も、それを見たと申出るものがなかった。
 自動車のほうは、どう考えても、もう、これ以上、手のつくしようがなかった。最後の希望は「グリュナアル」の「顧客名簿《フイシエ・クリアンテール》」の中から、鼬鼠のケープを買った、ブロンドの若い娘の住所を調べ出すことだけである。
 竜太郎は、その夜、ニースから汽車に乗った。
「グリュナアル」の支配人のクンケルというのは、いかにも独逸人らしい率直簡明な感じのする男で、竜太郎の説明を聞くと、すっかり剃り上げた丸い顱頂を聳やかすようにしながら、
「お引受けしました。やれるだけやって見ましょう。お役に立てば倖いです」
 と、いって、すぐ立って行って、原色版の分厚な絵入りのカタログを抱えて来て、
「鼬鼠のケープと申しましても、いろいろな型がございますのですから、あなたがお見覚えのあるのをこの中から選び出していただきます」
 探すケープは、すぐ見つかった。
 No. 27――と、カタログ番号が打ってあって、その下に、十五万法と定価がついていた。
「これです」
 クンケルは、うなずいて、二十七番の名簿箱《ケース》を持って来てテキパキと売出簿と照校しながら、
「発音は?」
「正確でした」
「よろしい。では。では、始めます」
 竜太郎の心臓は、はげしく動悸を打ちはじめた。
「どうぞ」
「巴里市内、七〇。地方、十。外国、三十二。……巴里市内の内訳は、上流、四。――職業《クウルチザンヌ》、一。――俳優、二――。以上の内、未婚の婦人は二人。……ガイタンヌ・ド・グウマンヴィル嬢《さん》、スュジイ・リセット嬢。……最初のほうは「|ある職業《クウルチザンヌ》」で、リセット嬢のほうは、オデオン座の女優です。一年以前からさる劇作家と同棲していられる筈です」
「すると、巴里市内ではないようです。地方のほうをどうぞ」
「未婚の婦人は二人。……ジャンヌ・バレスキ嬢、マルセイユ市メエラン街。……ミッシュリーヌ・ド・サンジャン嬢、サン・ラファエル町……」
(サン・ラファエル!)
 クンケルは名簿箱の上にかがみ込みながら、
「では、外国の部をやります」
 竜太郎は、大きな声で叫んだ。
「もう、お探し下さらなくとも結構です。たしかに、サン・ラファエルのミッシュリーヌというのが、それです」
 クンケルは頭をふって、
「ミッシュリーヌ嬢のほうは、私が知っていますが、ブロンドではありません。鳶色《プリユンタ》です」
 と、いって、何を思いついたのか、眉に皺をよせて、
「……ひょっとすると……」
「ひょっとすると?」
「……それは、エルマンスではなかったでしょうか」
「それは?」
「エルマンスというのは、私どもの店のマネキンですが、毎年、『季節《セエゾン》』になりますと、沢山に外套やケープを持たせて、キャンヌやモンテ・カルロへやります。新流行《ア・ラ・モード》の品物を身体につけて遊歩道《プロムナアド》をブラブラ歩くのがエルマンスの仕事なのです」
 竜太郎は、思わず卓の上に乗り出した。
「そのひとは、ブロンドですか」
「さよう。美しいブロンドです」
「美しい娘さんですか」
「私共では、いちばん美しい娘です。年齢は今年二十歳。……まだ独身です。愛人がいるという話もききませんから、どちらかと言えば、気立はいい方なのですが、何しろ、気まぐれで……」
「その娘さんは……」
「昨日、南仏から帰ってまいりました。奥に居りますが、なんなら……」
(あの夜の少女は、気紛れなマネキン!……)
 竜太郎は、激情をおさえるために、眼を閉じた。
(たとえ、なんであろうと!)
 ささやくような声で、いった。
「どうぞ、そのひとを、ここへ」
 クンケルは、電話で何か命じた。……
 間もなく、扉《ドア》を叩く音がする。竜太郎は椅子から飛び上った。
 扉が開いて、軽々とした足音がこちらへ近ずいて来る。竜太郎は、どうしても眼を開けてそちらを見ることが
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