としてあそこで食事をしたとすると、その間、鼬鼠のケープは……よし。なんとかなる!)
 ひとッ飛びに床から跳ね上ると、また段階を[#「段階を」はママ]駆け降りて食堂へ走り込んだ。
 給仕長《シェフ・ド・テル》が入口に立って、食堂を眺めていた。
「昨夜、ここで、黒い服を着た二十歳ばかりの娘がひとりで食事をしなかったかね」
「なさいました」
「鼬鼠のケープをつけていたろう」
「それは存じませんです。どうか、外套置場《プエスデエール》でおたずね下さいませ」
「有難う、それでいいんだ」
 竜太郎は食堂を飛び出した。
 外套置場の女は、たいへんに明快だった。
「はい、たしかにお預りしました。『グリュナアル』の店でつくった、鼬鼠の立派なケープでございました」
「たしかに、『グリュナアル』だったね」
「はい、たしかに」
 雲の間から薄い陽ざしが洩れて来た。そんな感じだった。
(巴里《パリ》の『グリュナアル』の店へ行きさえすれば、かならずなにか手がかりがある。……かならずかならず!……どんなことがあっても、もう一度逢って見せる。……すぐ次の汽車で巴里へ行って……)
 ところで、きょう自殺するほうはどうなるのか。これは、たしかに手痛い詰問だった。
(貴様は、あの娘にも、今日死ぬと誓った)
 竜太郎は広間の入口に突っ立ったまま、言いようのない屈辱感に襲われて、赤面した。
 この長い間、さまざまに放蕩もし、浮薄な生活もつづけて来たが、卑怯でだけはなかったつもりだ。これだけは、せめてもの日本人の手形だと思って大切にかけて来たのだった。
 自殺することは、いまの自分の生活にとっては、いわば真善美の要求で、虚偽だらけの自分の半生の最後に、ただ一度だけ真実な行動をして死にたいと思ったためである。自分のような人間にとっては、自殺は当為《ゾレン》であることを認め、いろいろ考えた末に決定したことなのだから、その実行にたいしては、自分自身、すこしの懸念も持っていなかった。予定した通り、予定した日に、かならずやってのける筈だった。これには、嘘はない。……しかし突然、事情が変ってしまった。
 竜太郎は呟いた。
(今は、たいして死にたいと思っていないようだ)
 それから、あわててこんな風に訂正した。
(おれはもう死ぬのがいやになった! このほうが、正直だ)
 伊太利人の使小僧《クーリエ》が手に帽子を持っておずおずと近づいて来た。
「旦那、あなたは鼬鼠のケープを着た娘さんのことをお尋ねになっているッて夜番が言いましたが……」
「そうだ」
「あッし、知ってるんです」
 竜太郎は呻き声をあげた。
「早く言え! 金は、やる」
 衣嚢《ポケット》にあるのをでたらめに掴み出して、使小僧の鼻の先に突き出した。手に何を掴んだのかまるで覚えがなかった。見ると、千|法《フラン》の紙幣だった。
「これをやるから、早く言え」
 使小僧は顫え上った。
「昨夜、一時ごろ、あッしが扉番をして居りますと、大きなね……それは、大きな自動車がめえりましたんです。頭灯《ファール》なんざ、こんなにでッかくて、喇叭がね、それも銀の喇叭が三つもついてるんでさァ。運転手が二人乗っていて、それがはァ棒でも嚥んだように鯱《しゃ》ッちょこばッてるんです。車の中には六十ばかりの老婦人が乗っているンだが降りもしねえ。なんだと思って見ていると、運転手が喇叭を、ブゥッ、ブゥッ、と二度ずつ三度つづけて鳴らしました。……それがきっと合図だッたんでさァ、鼬鼠のケープを着たお嬢さんがホテルから出て来て、スタスタと自動車のほうへ行きます。するとね、運転手のやつァ、いきなり、車からはね降りて、こうやって、おッ立って敬礼をしました」
「それから?」
「それから、運転手が車に乗って、行ってしまいました」
「どっちの方角へ行った」
「サン・ラファエルの方でさァ」
「車の番号は?」
「見ませんでした」
「車の色?」
「黒だったか、それとも、濃い青だったか」
「それで、もう話してくれることはないか」
「へえ、これですっかりです」
 竜太郎は車庫《ギャラアジュ》へ電話をかけて自分の自動車を出させると、それに飛び乗って、まっしぐらに、国道百二十号へ走り出した。
 サン・ラファエルまで、道々|哨所《ポスト》でたずねて、それで、もし、わからなければ、ローヌ川の谷間まで入って行くつもりだった。
(どんなことがあっても、探しあてて見せる! どうか、もう一度だけ。……せめて、もう一度だけ!)
 駛走《しそう》する自動車の中で、竜太郎はいっしんに叫びつづけていた。

    四

 巴里には、冷たい雨が降っていた。
 南仏《ミディ》では、もうミモザの花が散り、モンテ・カルロの夾竹桃《ロリーエ・ローズ》の街路樹が真赤な花をつけているというのに、ここはまだ冬のすがただった
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