ている。
 竜太郎は、そっと腕をのばして見たが、自分のとなりに誰も居なかった。
「どこにいる?」
 家具が葵花色《モブ》の影を床の上にひいているばかりで、何ひとつ動くものもなかった。
 竜太郎は、もう一度くりかえした。
「どこにいるんだ?」
 返事がない。
 竜太郎は寝台からはね降りると、窓のところへ駆けて行って鉄鎧扉《ベシン》を開け放した。まさしく、部屋の中には誰れも居ない。あわてて浴室をのぞいて見たが、そこにも、人の影はなかった。
(行ってしまった!)
 竜太郎が眠っているうちに、小鳥は飛び立って行ってしまった。
 竜太郎は部屋着をひっかけると、大急ぎで階段を駆け降りた。
 広間で、三人の掃除男がせっせと大理石の床を洗っていた。
「鼬鼠《エルミン》のケープを着た、若い娘さんが出て行くのを見かけなかったかね」
 三人が、ほとんど同時に答えた。
「見かけませんでした」
 竜太郎は広間を横切って不寝番《プエユウル》の部屋へ駆けて行った。不寝番は、ちょうど寝床に入ろうとしていたところだった。
「……鼬鼠のケープね?……いや、見かけませんでした。四時ごろひめじ釣りに行く英吉利人が二人出て行っただけでした」
 少女がこのホテルに泊っているのでないらしいことは、竜太郎はうすうす知っている。だまって行ってしまったとすれば、ほとんど探し出すあてはないのだった。サン・ラファエルからモンテ・キャルロまでの、この碧瑠璃海岸《コート・ダジュール》にある無数のホテルを、どういう方法でたずね廻ろうというのか、名前さえも知らないのに。
(一分毎に、あの娘は遠くなる)
 気が焦ら立って来て、じっと立っていられなかった。
 竜太郎は、せわしく足を踏みかえながら、
「帳場《ビュウロ》は何時に開くのか」
 不寝番は、ゆっくりとニッケルの懐中時計をひき出しながら、
「まず、大体……」
 とても、待っていられなかった。
「よしよし、自分で行って見る」
 竜太郎は長い廊下を帳場のほうへ駆けながら大きな声で叫んだ。
「なんて馬鹿なことをしたんだ。……このくらいのことは、もっと早く気がついていなくてはならなかったんだ。……だが、どんなことがあっても、もう一度逢って見せる。……どんなことがあっても!」
 帳場では、番頭がちょうどやって来たばかりのところだった。
「昨日着いた客の中に、もしか二十歳ばかりのブロンドの娘が……」
 冷淡な声で、番頭が遮った。
「昨日は、お発ちになるお客さまばかりで、お着きの客はございませんでした」
「でも、昨夜、土壇《テラッス》で……」
「ご旅行の方が、ご自由にお立ち寄りになりますから」
 ご旅行の方! この、ちょっとした言葉が、針のように鋭く竜太郎の耳を抉《えぐ》った。
「今朝早く、鼬鼠のケーブを[#「ケーブを」はママ]着た」
 番頭は、手で遮った。
「なにしろ、手前は、たったいまここへまいったばかりでございますから、何分にも……」
(昨夜、十二時半が鳴るのをたしかに聞いた)
「では、昨夜おそく……たぶん……」
「なにしろ、大勢のお客さまのことでございますから」
 竜太郎はしおしおと、自分の部屋のほうへ帰りかけた。
 何とも言い表し難い、はげしい孤独の感じが、鋭く胸を噛んだ。竜太郎は、この長い間、いつでもひとりで暮らしていた。しかし、こんな寂しさを感じたのは、これが最初だった。世界中から自分ひとりだけが見捨てられたような佗びしさだった。自分の部屋の前へ帰って来て、ふと見ると、部屋の扉が半開きになっている。感動して、思わずそこで立ち止った。息苦しくなってギュッと拳を胸におしあてた。
(帰って来たんだ!)
 竜太郎は喜悦の情に耐えられなくなって、勢よく扉を押して部屋の中へ走り込んだ。
 空色の大きな絨氈の上に、朝日が陽だまりをつくっている。部屋の中には誰れもいなかった。
 竜太郎は唇を噛んだ。そうしようとも思っていないのに、ひとりでに身体が動いて、絨氈の上にどっかりと胡坐をかいて腕組みをした。
(なるほど、こうすると、たしかに落ちつく)
 ふと日本から遠く離れていることを思って、うっすらと涙ぐんだ。この、十何年にまだ一度も無かったことだった。

 時計が八時をうつ。
 竜太郎は、低く、つぶやく。
「今日は、いよいよ死ぬ日だ」
 この部屋の窓からも、真向いに、南画のような松をのせた赤い岩が見える。地中海の青い水がはるばるとひろがっている。
「間もなく、おれは、あそこで死ぬ」
 そのほうは、もう何の感じもひき起さなかった。ただ……。
(もう一度、あの娘に逢ってから死にたい)
 そう思うと、矢も楯もたまらなくなってくるのだった。……
 思いがけもなく、こんなことをおもい出した。
(あの匂いは、たしかに、食堂の入口にも漂っていたようだったが、あの娘がひょっ
前へ 次へ
全25ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング