うんです」
「たった、ひと言。……ね、お誓いになれて?」
「そんなことは、ごめんです。……誓おうと、誓うまいと、志村竜太郎。……三十四歳。……金利生活者《ランチエ》。……健全な肉体と精神を持ったこの男一匹が、明日、海の上へ脳漿を撒き散らしてあわれな最期をとげる。……たぶん、夕暮れ前にね。……お望みなら、ここで見物していらっしゃい」
 少女が、ためいきをつく。
「あたくしも、あなたほど勇敢だったら……」
 竜太郎は、返事をしなかった。
 少女は、いままで鼬鼠《エルミン》のケープの下に隠していた、美しい小さな手を抜き出すと、竜太郎が指をかけている揺椅子の肱のところへそっと載せた。竜太郎は、うるさくなって、手を引こうとするはずみに、思わず指先が少女の手に触れた。それでも、少女の手は動かなかった。
「竜太郎さん……」
 少女は、胸の上に顎をつけながら、ほのかな声で、叫んだ。
「……竜太郎さん」
 暖かな、小さな手がしずかに這いよって来て、細い、嫋《しな》やかな指が、すんなりと竜太郎の指に絡みついた。
 竜太郎は、眼を外らして、薄光りのするくろい海の面を眺めていた。
(さて、これから、どうしようというんです、お嬢さん)
 明日、必ず自殺するつもりだと言い切ると、いきなりこの指が絡みついて来た。このちっぽけな頭の中で、いったい、どんな陰謀をたくらんでいるのか。……何にしても、解しかねる次第だった。
 揺椅子の中で、劇しく呟きこむような声がする。振りかえって見ると、小女が声を忍ばせながら啜り泣いているのだった。
「どうしたんです」
 少女は、劇しい勢いで椅子の背に頭を投げかけると、よく響く声で、笑いはじめた。
「なんでもありませんの。……竜太郎さん、あたくし、しあわせよ。……ああ、いま、どんなに、しあわせだか!」
 そういうと、また、沁みるような細い声で泣き出した。
 湿った海風が、二人の上を吹いて通る。
 竜太郎は、なんとなく、しみじみとした気持になって、土壇に膝をつくと、少女の手頸にそっと唇を触れた。竜太郎の耳に、少女のはげしい息づかいの音がきこえた。
「この椅子に、……あたくしのそばへ坐って、ちょうだい。……しっかりとあたくしの手を握って、……なにか、お話をして、ください。……あたくし、こうして眼をつぶって伺っていますわ」
 竜太郎は、少女と並んで掛けた。柳の枝のようによく撓《しな》う小さな手だった。
「……そこで、あなたの名は?」
 少女は返事をしなかった。
「では、苗字だけ」
 少女は、悲しそうに、首を振った。
「あなたのことは、何もきいてはいけないのですか」
「えっ、何も!……どうしても、それは、もうしあげられませんの」
 そういうと、気がちがったように、竜太郎の手を自分の胸に引きよせながら、
「どうぞ、あたくしを、好きだと言って、ちょうだい」
(どの女も、どの女も、みな同じようなことを言う。……あたしを好きだっと言ってちょうだい)
「ね、……どうぞ、たったひと言でいいから……」
 竜太郎は、そっと、ため息をつく。
「お嬢さん、あなた、だいすきです。……私は、あなたがどんな方なのか知らないし、お目にかかるのも今日がはじめてですが、あなたを好きになるのに、それでは不充分だということはない。……あっ、このまま、あなたと離れないですむなら……」
 どんな出鱈目でも、平気で言えそうだった。
(どうせ、明日までのいのちだ。言いたいだけたわごとを吐いて見ろ)
 明日までのいのち……。
 もう、馴れ切ったはずのこの考えが、石のように重く心の上に隕《お》ちかかり、ひどい力で胸のあたりを締めつけた。
(あすになれば、この娘とも……)
 なにか抵抗し難い、劇しい感情が、火のように血管の中を駆け廻る。
 竜太郎は、われともなくそぞろな気持になって、少女の背に腕を廻すと、力任せに抱きよせた。
「ああ」
 少女は、眩暈《めまい》しかけたひとのような、小さな叫び声をあげると、まるで、ひとひらの羽毛のように軽々と竜太郎の腕の中へ落ちこんできた。この小さな身体が手の囲いの中で、今にも消えてしまいそうな感じだった。……※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《ろう》たけた、ほんとうに、この世のものとも思われぬようなつややかな顔を空へ向け、ぐったりと、死んだようになって、眼を閉じていた。

    三

 薄眼をあけて見ると、夜明けの色が、ほの青く窓を染めかけていた。
 重苦しい睡気が頭のうしろに絡みつき、まだ半ば夢の中にいるような気持だった。
 とつぜん昨夜の記憶が鮮やかに心の上に甦って来た。昨夜ここで……。
 竜太郎は、小さな声で呼びかけた。
「眠っているの」
 部屋の中は、ひっそりとしずまりかえっていて、時計の音だけが、浮き上るように響い
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