つもりだった。
 あの嫋やかな手を執り、あの優しい声を聴き、あの夜のようにしっかりと抱き合いながら、その耳へ、
(結婚しようね。死ぬまで、離れなくともすむように)
 と、囁やくつもりだった。
 ひと言それを言いたいばかり、この長い間、身も痩せるような奔走をつづけて来たのだったが……。しかし……
 しかし、もう、諦めなくてはならないのであろう。
※[#始め二重括弧、1−2−54]リストリア王国を統べ給うべき、エレアーナ王女殿下※[#終わり二重括弧、1−2−55]
 ところで、こちらは、放蕩と世俗の垢にまみれた、何ひとつ取り得のない一介の国際的ルンペン。愚にもつかぬ厭世家《ペシミスト》。賭博者。
 これでは、あまり種属がちがいすぎるようだ。いくらあがいたって、どうにもなるものではない。抱くどころか、傍にだってよれやしない。
 とつぜん、思いがけないある思念が電光のように心の隅を掠《かす》めた。
 竜太郎は、度を失って、もうすこしで叫び出すところだった。
 あの夜、少女がなぜ名を名乗らなかったか、あす自殺するつもりだというと、なぜ、急にあの細い指が絡みついて来たのか、迂濶にも、今になって、竜太郎は初めてその意味を了解した。
 明日はもうこの世にいない男だから、それで、ひと夜の気紛れの相手に撰んだのだった。なにしろ、死人に口はないのだから、あと腐れもなかろうし。――なんという抜目のなさ!
(なるほど、そういうわけだったのか)
 竜太郎の胸の裏側を、何か冷たいものが吹いて通る。佗びしいとも、やるせないとも言いようのない寒々とした気持だった。
 しょせん、戯れにすぎなかったのだ。あの夜の離れて行きかたが、よくそれを表明している。たとえ、わずかばかりでも真実らしい思いがあったら、けして、あんな別れかたはしまい。揺り起して、別れの言葉のひとつぐらいは言うであろう。それを、眠っているのを見すまして、逃げるように行ってしまった。
 あの愛らしい唇から、あんなにも優しく呼びかけあんなにもいくども誓った、あのかずかずの言葉は、みな、その場かぎりのざれごと[#「ざれごと」に傍点]だったのだ。
 竜太郎は、胸の中で、苦々しく、呟く。
(なにしろ、うまく遊ばれたもんだ)
 それはいいが、……それはいいが、これほどの自分のひたむきな熱情や真実が、こんな無残な方法で虐殺されたと思うと、つらかった。

前へ 次へ
全50ページ中19ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング