たぶん、魂が痛むというのは、こんな感じをいうのであろう。胸のどこかに孔があき、その創口から、すこしずつ血が流れ出しているような、そんな辛さだった。
 ふと、気がついて顔をあげると、ダンピエール先生が、半身をこちらへ捻じ向け、ペンを持ったままで、気遣わしそうな面持でこちらを眺めていた。ヤロスラフ少年は先生のそばで、何かせっせと紙に書きつけていた。
 竜太郎が顔をあげたのを見ると、先生は、いつものように屈托のない調子で、
「……すこし、顔色が悪い。気分でも悪いのではないかね。……それとも」
 チラと皮肉な微笑をうかべ、
「バルカン半島のような政事的擾乱《フウルウィルスマン・ポリティック》が君にも起こっているのか」
 と、いって、大声で笑い出した。
 竜太郎はハンカチで額を拭う。ひどい冷汗だった。出来るだけ快活なようすをつくりながら、
「いや、そういうわけではありません。ええと、……大急ぎで、リストリア語とルウマニア語の比較論《コンパレ》を書き上げなくてはならないことになって、……この頃、ずっと寝不足をしているものですから、それで……」
 何を言うのか、しどろもどろのていだった。
 先生は、すぐ真にうけて、
「それは、たいへんだ。何か要る本があったら遠慮なく持って行きたまえ。……もし、そういう必要があるなら、ヤロスラフ君を貸してあげてもいいよ」
 竜太郎は、あわてて手を振った。
「いいえ、それほどのことでもないのです。……すこしばかり参考書を貸していただければ……」
 そう言いながら、何気なく先生のとなりへ視線を移すと、瞬きもせずに、竜太郎を瞶めているヤロスラフの眼と出会った。なにか、劇しい敵意を含んだ眼つきだった。
 竜太郎は、自分でも何とも判らぬ不快を感じて、ジッとその眼を見返すと、ヤロスラフは、急に眼を伏せて額際まで真赤になり、「どうも失礼しました。……わたくし、日本の方にお眼にかかるのはこれが初めてなんです……」
 と、いって、近東人種特有の陰険な微笑を浮べた。どうもそのまま信用しにくいようなところがあった。
「それに、もうひとつ。……どうしてその写真があなたのお手に入ったか、さっきからそれを不審にしていたものですから……」
 来るな、と思っていたら、果してそうだった。竜太郎は顔を引き緊めて、
「これは、あるひとから托されたのですが、そのひとの名を申しあげなくて
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