、折よくダンピエール先生がそこに居た。
先生は写真を受け取ってその文字を眺めていたが、眼鏡を額のほうへ押しあげながら、竜太郎のほうへふりかえると、
「これは、リストリア語だね。……残念だが、ぼくには読めませんよ。……しかし、大したことはない。リストリアからヤロスラフという若い留学生が一人来ているから、それを呼んで読んで貰おう」
間もなく扉を開いて、十九歳ばかりの痩せた、敏感そうな少年が入って来た。
ヤロスラフは写真を受け取ってチラとその主を一瞥すると、たちまち硬直したようになって、やや長い間、眼を伏せて粛然としていたが、やがて、物静かに、口を切った。
「ここには、こんなふうに書いてあります」
[#ここから3字下げ]
神の御思召あらば、
リストリア王国を統べ給うべき
エレアーナ王女殿下
[#ここで字下げ終わり]
竜太郎の耳のそばで、何かがえらい音で破裂したような気がした。いま、自分の耳が聴いた言葉が、いったい、どういう意味をなすのか、咄嗟に了解することが出来なかった。
「なんです?……どうか、もう、一度」
ヤロスラフは、敬虔なようすで眼を閉じると、祷るような口調で繰りかえした。
「神の御思召あらば、リストリア王国を統べたもうべき、エレアーナ王女殿下……」
「するとあの方が……」
竜太郎の眼を見かえすと、ヤロスラフは一種凛然たる音調で、こたえた。
「王女殿下であられます」
こんどは、はっきりとわかった。
六
(あの夜の少女が王女《プランセス》)
身体中の血が、スーッと脚のほうへ下ってゆくのがわかった。生理的な不快に似たものがムカムカ胸元に突っかけ、ひどい船酔でもしたあとのように、頭の奥のほうが、ぼんやりと霞んで来た。
(おれは、ここで卒倒するかも知れないぞ)
机の端を両手でギュッと掴んで、いっしんに心を鎮めた。
すこし気持が落ちつくと、最初に鋭く頭に来たのは、これアいけない、という感じだった。
(もう、二度とあの小さな手を執ることは出来ない。声をきくことも抱くことも……)
この想いが、たったいま、自分をとりとめなくさせたのだった。
竜太郎は、あの娘に逢ったら、いきなり胸の囲みの中へとりこみ、今迄の、うらみつらみ、うれしさも悲しさも、何もかもいっしょくたに叩きつけ、人形のような、あの脆《もろ》そうなからだを腕の中で押しつぶしてやる
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