になる。
(するてえと、こりゃア、手傷を負ったままやって来て、いよいよいけなくなってここでぶッくらけえったんじゃありませんかしらん。船弁慶の知盛《とももり》の霊でもあるめえし、抜身を持った幽霊なんてえのは、当今、あんまり聞きませんからねえ)
出尻伝兵衛、したり顔で偉らそうな口をきいたが、この差出口はまるで余計なようなものだった。
仮にそうだとすると、血の痕がずっと藪下の方から続いていなければならぬ筈だが、足跡の上には、紅梅の花びらほどの血も落ちていないのだから手《て》がつけられない。与力の橋爪左内《はしづめさない》にあっさりとやり込められて、伝兵衛、赤面して引き退った。
すったもんだはあったが、結局、どうして殺されたのか判らずじまい。ふしぎなこともあるもんだな。で、チョン。
尤も、身許の方はすぐわかった。近江屋《おうみや》[#ルビの「おうみや」は底本では「あうみや」]という伝馬町の木綿問屋の末娘で、初枝《はつえ》という十八になる娘。
源内先生いうところの気憂病《クーフデ・デリフト》。暮から根津の寮に来ていて、寝たり起きたり、ぶらぶらしていた。
ちょうど七ツ頃、雪が止んで、クワッと陽が照り出したのを見て、ちょっと、と言って、行先も告げずに寮を出た。それで、こんな始末になった。
ところで、それから四日おいた同じく正月の八日。こんどは、日暮里《にっぽり》の諏訪神社《すわじんじゃ》の境内で、同じような事件が起きた。
富士見坂《ふじみざか》の上、ちょうど花見寺《はなみでら》の裏山にあたるので、至《いた》って見晴しのいい場所。
この境内に立つと、根岸田圃《ねぎしたんぼ》から三河島村《みかわしまむら》、屏風を立てたような千住《せんじゅ》の榛《はん》の木林。遠くは荒川《あらかわ》、国府台《こうのだい》、筑波山《つくばさん》までひと目で見渡すことが出来る。
やはり、雪のやんだ、クワッと陽のさしかけた天気のいい朝で、時刻は五ツ半頃。
崖っぷちに、夏は納凉場《すずみば》になる葦簀張《よしずば》りの広い縁台があり、そのそばに小さな茶店が出ている。
雪《ゆき》の朝早《あさはや》くなので、まだ参詣の人影もない。やって来たのは、その娘ひとり。
納め手拭を御手洗《みたらし》の柱へかけて、社《やしろ》へちょっと拍手《かしわで》をうち、茶屋の婆へ愛想よく声をかけてから、崖っぷちへ行って、雪晴れの空の下にクッキリと浮き出した筑波山の方を眺めていた……。
茶屋の婆が、茶釜の下をのぞいている、ものの二、三分ほどの間に、娘は殺されて雪の上に倒れていた。
日頃、ひよわいお嬢さんだから、雪にでもあたったのかと思って、茶屋の婆が急いで駆け寄って見ると、雪あたりどころか、のぶかく頭を斬りつけられ、アララギの御神木《ごしんぼく》の根元のところに、結ったばかりの路考髷《ろこうまげ》を雪に埋めてあわれなようすをして死んでいた。あッ、という声さえきかなかった。
一方は切り立った崖で、一方はひと目で見渡せる広い境内。雪の上には、ここでも、婆と娘の足跡のほか、押したような痕すらない。
信心深い娘で、毎月八日にきまって手拭を納めに来るので、婆とは顔馴染、素性もよく知っていた。谷中《やなか》の延命院《えんめいいん》の近くに住んでいる八重《やえ》という浪人者の一人娘。
坂下の番屋に気のきいた番衆がいて、駆け込んで来た婆の話をきくと、一緒に飛んで来て、石段の下へ縄を張って参詣の人を喰い止めてしまったので、足跡は、そっくりその時のままになっていた。
創《きず》も、初枝のときと寸分ちがわない。条件もそのまま。従って、わからないことも前に同じ。
駆けつけて来た与力、お手先《てさき》。五里霧中のていでぼんやり引上げて行った。
一度ならともかく、こんなぐあいに引続いて二度までも謎のような事件が起ると、早耳の市中ではそろそろ評判を立てる。
尾に鰭《ひれ》がつき、若い娘ばかり十五人も生胆《いきぎも》をぬかれたように言う。
若い娘を持った親達の心配。それよりも、当の娘たちの脅え方がひどい。ちょうど正月興行が蓋をあけたというのに逆上《のぼせ》るほど見たい芝居もがまんして、家《うち》にちぢこまっている。
月番《つきばん》の南町奉行所《みなみまちぶぎょうしょ》でも躍気となって、隠密廻《おんみつまわり》、常廻《じょうまわり》はもとよりのこと、目明《めあか》し、下《した》ッ引《ぴき》を駆りもよおし、髪結床《かみゆいどこ》、風呂屋、芝居小屋、人集《ひとよ》り場、盛り場に抜目なく入り込ませ、目くじり聴き耳立てて目ぼしい聞込みでもとあせり廻るが、一向、なんの手懸りもない。雲を掴むよう。
てんやわんやのうち、空しく日が経って十六日。
よもやと思っていた係与力《かかりよりき》の耳へ、谷中瑞雲寺《やなかずいうんじ》の閻魔堂《えんまどう》のそばで、つい、たった今、また娘がひとり殺《や》られたという急な報せ。ちょうど、閻魔の祭日の当日なので。
そばと言っても境内ではない。瑞雲寺の石塀をへだてた隣りの家。
娘の名はお蔦《つた》。さきの二人と同じく、やはり十八。
浜村屋《はまむらや》という芝居茶屋の二女で、二人に劣らぬ縹緻《きりょう》よし。商売柄になじまぬ躾《しつけ》のいい娘で、この朝も早く起き、昨夜《ゆうべ》の雪が薄すらと残った物干台へ、父親の丹精の植木鉢を運びあげていた。
物干へ上ると、閻魔堂の屋根はすぐ眼の前。気さくなたちだから、植木鉢を棚へ並べながら境内を見下ろして、二階の座敷にいる母親に、大きな声で参詣の人の品さだめをしてきかせていた。
そのうちに、とつぜん声がしなくなり、コソとも動き廻る音が聞えなくなったので、母のお芳《よし》が妙に思って、横手の半蔀《はじとみ》から物干の方を見上げて見ると、お蔦が、膝をつくようにして、雪の上にがっくりと上身をのめらせていた。
物干場から瑞雲寺の石塀までは、大体、五間ほど離れている。そちらへ迫ってゆく屋根もなく、物干の下はすぐ黒板塀を廻した中庭。
二つの前例通り、どこを見ても変った足跡などはない。気のきいたつもりのやつが、二階の屋根瓦の上を這い廻ったが、雀が驚いて飛び立っただけで、ここにも、何の消息はなし。
源内先生の演説
源内先生が、宙乗《ちゅうのり》をしていられる。風鐸《ふうたく》を修繕するだけのためだから、足場といっても歩板《あゆび》などはついていない、杉丸《すぎまる》を組んだだけの、極くざっとしたもの。
何しろ、大きな筒眼鏡を持っていられるので、進退の駈引が思うように行かぬらしい。三重のあたりまでモソモソと降りて来たが、そこで、グッと行き詰ってしまった。
足場の横桁が急に間遠になって先生の足が届かない。宙ぶらりんになったまま、しきりに足爪を泳がせていられるが、どうして中々、そんな手近なところに足がかりはないのである。
源内先生は、情けない声をだす。
「おい、伝兵衛。どうも、いかんな。こりゃ、降りられんことになった。なんとかしてくれ」
伝兵衛は、面白そうな顔で見上げながら、無情な返事をする。
「何とか、って。どうすりゃアいいんです」
「上《あが》るも下《おり》るも出来んようになった。頼むから助けてくれ」
「本当に降りられないのですか」
「まあ、そうだ」
「そんなら、あっしが助けてあげます。その代りに、一つお願いがあるんです」
「何だ、早く言え」
「あなたのお見込をぶちまけて下さい」
「見込なんか、ない」
「返事がないのは、お嫌なのですか。……嫌なら嫌でもいいよ。頼みを聞いてくれなけりゃア、あっしはこのまま行ってしまうから」
「行くなら行け。そのうちに誰かやってくるだろう。その人に助けて貰うからいい」
「誰も入《い》れません」
「入れんとは、何のことだ」
「山下の駒止札《こまどめふだ》のところに立っていて、誰《た》れも山内へ入れないようにしてあげます」
「馬鹿なことをするな」
「ええ、どうせ馬鹿ですから」
「これは弱った。気が遠くなりそうだ」
「たった一言でいいんです。そうしたら、あっしが上って行って抱きおろしてあげます」
「止むを得ない、話してやる」
伝兵衛は頓狂な声をあげて、
「えッ、じゃア、本当に見込がついているんですか」
「うむ、ついている。……実のところ、今度の『本草会《ほんぞうかい》』の席で披露して、四隣を驚倒させるつもりだったんだが、背に腹はかえられぬからぶちまける」
「勿体ぶっちゃいけません。そらそら、あなたの手が顫えて来ました。早く早く……」
「うむ、これは困った。……一口に言えば、今度の件は、『隕石《アエロリトス》』の仕業なんだ。これだけ言ったら思い当るところがあるだろう」
「いいえ、一向」
「手間のかかるやつだ。……アエロは空、リトスは石。……アエロリトスというのは、つまり、『空の石』ということだ」
「言葉の釈義などはどうでもようござんす。……その、空の石がどうしたというんです」
「判らぬ奴だな。……要するに、空から隕ちて来た石が、あの二人の娘を殺害したのだ」
伝兵衛は、むッとして、
「はぐらかしちゃいけません。そんなところに宙ぶらりんになりながら地口をいうテはないでしょう。真面目なところをきかせて下さい」
「これは怪《け》しからん。究理の問題に於て、この源内が出鱈目《でたらめ》などを言うと思うか」
伝兵衛は、両手で煽ぎたて、
「怒っちゃいけません。……するてえと、それは、本当のことなのですか」
「お前の言種《いいぐさ》ではないが、この寒空に、洒落や冗談で五重塔の天辺で徹夜など出来るものか。夜更けに小雪が降り出して、えらい難儀をした」
「ですからさ、一体そんなところで何をしていらしたんです」
「一晩、塔の上に頑張っていて、つらつらと流星《ながれぼし》を眺めておった」
「流星はいいとして、さっき仰言《おっしゃ》った空の石というのは何のことです。あっしは、子供の時からずいぶん空を見ていますが、石っころなど見かけたことがありません」
「なるほど、空の石というだけではわかるまい。……実はな、伝兵衛、星と見えるのは、あれは実は大きな岩石のようなものなのだ。石の多いときは隕石といい、鉄が多い時は隕鉄という。しからば、その岩石が、なぜあのような光を発するかといえば、幾千万里と離れたところにある大きな岩の塊が太陽の光を受けて、それでわれわれの眼に輝いて見える。ところで、その星がなぜこの地球の上に隕ちて来るかというに、いったい星なるものは、手っ取り早く言えば、鶏卵の黄味がからざ[#「からざ」に傍点]で両端《りょうはし》から吊られると同じく、うまい工合に釣合を保って宙に浮いておる」
「こりゃ驚いた。そいつア、初耳でした」
「うるさい、喋るな。……ところで、何かの動機《はずみ》でそのからざ[#「からざ」に傍点]が切れると、否応《いやおう》なしに地面の上に隕ちて来る。お前も覚えがあるだろう、えらい勢いで鉢合せをすると、眼から火が出たという。つまり、その理窟で、そういう厖大なものが、えらい勢いで隕ちて来るのだから、空気の摩擦のために火を発し、隕ちて来る途中で追々に燃え減って、地面に達せぬうちに消滅してしまう。また、地球まで届いたとしても、大方は、極めて小さな無害なものになっているから、あまり誰も気がつかぬ。殊に、人里離れたところや、大海の中に隕ちたものは、誰の眼にもつかずに終ってしまう。しかし、流星の方には、別に遠慮のあるわけではないのだから、あながち、辺鄙《へんぴ》なところや海の中にばかり隕ちるとは限らない。この江戸の真中へ隕ちて来ても一向、差支えないのだ」
「いかにも、それは、そうです」
「西洋に於ても、そういう例はあまりたんとはないが、運悪く行き合わせた人間が、その石のために頭を割られたようなことは無いでもない。甚だ稀有なことだが、今度の場合などは、まさに、それだ。……おい、伝兵衛、もう、これ位で勘弁してくれ。とても、保ち切れなくなった」
「まあまあ、もう少し辛抱してお
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