むきも少くなかった。
 雪の遅い年で、正月三日の午すぎ初雪が降り、二寸ほど積って止んだ。
 根津の太田の原に、不思議な人殺しがあった。
 藪下《やぶした》から根津神社へ抜ける広い原に、夏期《なつば》は真菰《まこも》の生いしげる小さな沼がある。
 その沼の畔《ほとり》から小半町《こはんちょう》ほど離れた原の真中に、十七八の美しい娘が頭の天辺から割りつけられ、血に染まって俯伏せに倒れていた。
 何か鋭利な刃物で一挙に斬りつけたものらしく、創口《きずぐち》は脳天から始まって、斜後《ななめうしろ》に後頭部の辺まで及んでいる。
 細身の刀か、それに類似した薄刃の軽い刃物で斬りつけたものと思われるが、歩いているところを、後からだしぬけに斬りつけたのだとすると、創口の工合から見て、当然、相当長身の者の仕業だと察しられ、長さの割合に創口が深くないのは、あまり臂力《びりょく》すぐれぬ者がやった証拠である。
 ただ、創口の一個所に鈍器で撃ったような抉《えぐ》れがある。こんなところを見《み》ると、刃物でやったとばかし思えぬような節もある。しかし、それも、二《ふた》つにわけて考えれば、たやすく解決される。
 最初、角のある石のようなもので撃ったが、目的を達することが出来なかったので、今度は細身の刀ででも斬りつけたのにちがいない。撃った創と斬った創が、同じ場所で重り合うようなことは、あまり例のないことであろうが、百に一つぐらいのうち、こんな偶然は考えられぬこともないわけ。
 これが、検死の御用医の意見。
 まあまあ、一応の筋は通っている。ところで、その下手人は、いったいどこから来た。
 雪の上には、殺された娘の差下駄《さしげた》の跡しかない。
 沼の縁《ふち》はもとより、一帯の湿地で、かなり天気の続いた後でも、下駄の歯をめり込ますこの太田の原。その上に、ふんわり積んだ春の雪。
 三町四方もあるだだっ広い雪の原のうえに、藪下の方から真直に続いている殺された娘の二の字の下駄の跡だけ。その他《ほか》には馬の草鞋《わらんじ》はおろか、犬の足跡さえない。すがれた葭《よし》と真菰の池の岸まで美しいほどの白一色。
 ちょうど、雪が降り止んだ頃にこの原へ差しかかったことは、娘の身体に雪が降り積んでいないことによってはっきりとわかる。
 すると、下手人は、どこから来て、どんな方法でこの娘を殺したのかということになる。
(するてえと、こりゃア、手傷を負ったままやって来て、いよいよいけなくなってここでぶッくらけえったんじゃありませんかしらん。船弁慶の知盛《とももり》の霊でもあるめえし、抜身を持った幽霊なんてえのは、当今、あんまり聞きませんからねえ)
 出尻伝兵衛、したり顔で偉らそうな口をきいたが、この差出口はまるで余計なようなものだった。
 仮にそうだとすると、血の痕がずっと藪下の方から続いていなければならぬ筈だが、足跡の上には、紅梅の花びらほどの血も落ちていないのだから手《て》がつけられない。与力の橋爪左内《はしづめさない》にあっさりとやり込められて、伝兵衛、赤面して引き退った。
 すったもんだはあったが、結局、どうして殺されたのか判らずじまい。ふしぎなこともあるもんだな。で、チョン。
 尤も、身許の方はすぐわかった。近江屋《おうみや》[#ルビの「おうみや」は底本では「あうみや」]という伝馬町の木綿問屋の末娘で、初枝《はつえ》という十八になる娘。
 源内先生いうところの気憂病《クーフデ・デリフト》。暮から根津の寮に来ていて、寝たり起きたり、ぶらぶらしていた。
 ちょうど七ツ頃、雪が止んで、クワッと陽が照り出したのを見て、ちょっと、と言って、行先も告げずに寮を出た。それで、こんな始末になった。
 ところで、それから四日おいた同じく正月の八日。こんどは、日暮里《にっぽり》の諏訪神社《すわじんじゃ》の境内で、同じような事件が起きた。
 富士見坂《ふじみざか》の上、ちょうど花見寺《はなみでら》の裏山にあたるので、至《いた》って見晴しのいい場所。
 この境内に立つと、根岸田圃《ねぎしたんぼ》から三河島村《みかわしまむら》、屏風を立てたような千住《せんじゅ》の榛《はん》の木林。遠くは荒川《あらかわ》、国府台《こうのだい》、筑波山《つくばさん》までひと目で見渡すことが出来る。
 やはり、雪のやんだ、クワッと陽のさしかけた天気のいい朝で、時刻は五ツ半頃。
 崖っぷちに、夏は納凉場《すずみば》になる葦簀張《よしずば》りの広い縁台があり、そのそばに小さな茶店が出ている。
 雪《ゆき》の朝早《あさはや》くなので、まだ参詣の人影もない。やって来たのは、その娘ひとり。
 納め手拭を御手洗《みたらし》の柱へかけて、社《やしろ》へちょっと拍手《かしわで》をうち、茶屋の婆へ愛想よく声をかけてから、崖っぷ
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