ちへ行って、雪晴れの空の下にクッキリと浮き出した筑波山の方を眺めていた……。
茶屋の婆が、茶釜の下をのぞいている、ものの二、三分ほどの間に、娘は殺されて雪の上に倒れていた。
日頃、ひよわいお嬢さんだから、雪にでもあたったのかと思って、茶屋の婆が急いで駆け寄って見ると、雪あたりどころか、のぶかく頭を斬りつけられ、アララギの御神木《ごしんぼく》の根元のところに、結ったばかりの路考髷《ろこうまげ》を雪に埋めてあわれなようすをして死んでいた。あッ、という声さえきかなかった。
一方は切り立った崖で、一方はひと目で見渡せる広い境内。雪の上には、ここでも、婆と娘の足跡のほか、押したような痕すらない。
信心深い娘で、毎月八日にきまって手拭を納めに来るので、婆とは顔馴染、素性もよく知っていた。谷中《やなか》の延命院《えんめいいん》の近くに住んでいる八重《やえ》という浪人者の一人娘。
坂下の番屋に気のきいた番衆がいて、駆け込んで来た婆の話をきくと、一緒に飛んで来て、石段の下へ縄を張って参詣の人を喰い止めてしまったので、足跡は、そっくりその時のままになっていた。
創《きず》も、初枝のときと寸分ちがわない。条件もそのまま。従って、わからないことも前に同じ。
駆けつけて来た与力、お手先《てさき》。五里霧中のていでぼんやり引上げて行った。
一度ならともかく、こんなぐあいに引続いて二度までも謎のような事件が起ると、早耳の市中ではそろそろ評判を立てる。
尾に鰭《ひれ》がつき、若い娘ばかり十五人も生胆《いきぎも》をぬかれたように言う。
若い娘を持った親達の心配。それよりも、当の娘たちの脅え方がひどい。ちょうど正月興行が蓋をあけたというのに逆上《のぼせ》るほど見たい芝居もがまんして、家《うち》にちぢこまっている。
月番《つきばん》の南町奉行所《みなみまちぶぎょうしょ》でも躍気となって、隠密廻《おんみつまわり》、常廻《じょうまわり》はもとよりのこと、目明《めあか》し、下《した》ッ引《ぴき》を駆りもよおし、髪結床《かみゆいどこ》、風呂屋、芝居小屋、人集《ひとよ》り場、盛り場に抜目なく入り込ませ、目くじり聴き耳立てて目ぼしい聞込みでもとあせり廻るが、一向、なんの手懸りもない。雲を掴むよう。
てんやわんやのうち、空しく日が経って十六日。
よもやと思っていた係与力《かかりよりき》の耳へ、谷中瑞雲寺《やなかずいうんじ》の閻魔堂《えんまどう》のそばで、つい、たった今、また娘がひとり殺《や》られたという急な報せ。ちょうど、閻魔の祭日の当日なので。
そばと言っても境内ではない。瑞雲寺の石塀をへだてた隣りの家。
娘の名はお蔦《つた》。さきの二人と同じく、やはり十八。
浜村屋《はまむらや》という芝居茶屋の二女で、二人に劣らぬ縹緻《きりょう》よし。商売柄になじまぬ躾《しつけ》のいい娘で、この朝も早く起き、昨夜《ゆうべ》の雪が薄すらと残った物干台へ、父親の丹精の植木鉢を運びあげていた。
物干へ上ると、閻魔堂の屋根はすぐ眼の前。気さくなたちだから、植木鉢を棚へ並べながら境内を見下ろして、二階の座敷にいる母親に、大きな声で参詣の人の品さだめをしてきかせていた。
そのうちに、とつぜん声がしなくなり、コソとも動き廻る音が聞えなくなったので、母のお芳《よし》が妙に思って、横手の半蔀《はじとみ》から物干の方を見上げて見ると、お蔦が、膝をつくようにして、雪の上にがっくりと上身をのめらせていた。
物干場から瑞雲寺の石塀までは、大体、五間ほど離れている。そちらへ迫ってゆく屋根もなく、物干の下はすぐ黒板塀を廻した中庭。
二つの前例通り、どこを見ても変った足跡などはない。気のきいたつもりのやつが、二階の屋根瓦の上を這い廻ったが、雀が驚いて飛び立っただけで、ここにも、何の消息はなし。
源内先生の演説
源内先生が、宙乗《ちゅうのり》をしていられる。風鐸《ふうたく》を修繕するだけのためだから、足場といっても歩板《あゆび》などはついていない、杉丸《すぎまる》を組んだだけの、極くざっとしたもの。
何しろ、大きな筒眼鏡を持っていられるので、進退の駈引が思うように行かぬらしい。三重のあたりまでモソモソと降りて来たが、そこで、グッと行き詰ってしまった。
足場の横桁が急に間遠になって先生の足が届かない。宙ぶらりんになったまま、しきりに足爪を泳がせていられるが、どうして中々、そんな手近なところに足がかりはないのである。
源内先生は、情けない声をだす。
「おい、伝兵衛。どうも、いかんな。こりゃ、降りられんことになった。なんとかしてくれ」
伝兵衛は、面白そうな顔で見上げながら、無情な返事をする。
「何とか、って。どうすりゃアいいんです」
「上《あが》るも下《
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