ちょうど今日が初日で、沸き返るような前景気。まず、ざっとこんなあんばい。
 才気縦横、多技多能……、四|通《つう》八|達《たつ》とでも言いましょうか、江戸始まって以来の奇才と評判される多忙|多端《たたん》の源内先生が、明和七年正月十六日の朝ぼらけ、ところもあろうに五重塔の天辺で悠々閑々と筒眼鏡で景色などを眺めてござるなどはちと受取れぬ話。
 尤も、ちょっとひとの考えつかぬような図外れたことばかり思いつかれる先生のことだから、迂濶に景色を眺めているというのではあるまい、何かそれ相当の変った方寸《ほうすん》があられるのだとも察しられるのである。
 呆気にとられ、あんぐり開いた伝兵衛の口に、春の風。
 あふッ、と息を嚥《の》んで、
「先生、……平賀先生、あなたはまア、そんなところで一体何をしていらっしゃるんです」
 先生が湯島天神《ゆしまてんじん》から白壁町へ引っ越して以来の馴染なので、伝兵衛は遠慮のない口をきく。先生の方では下らん奴だと思っていられるかして、どんなことを言っても怒ったような顔もしない。
 これでよく御用聞がつとまると思うほど、尻抜けで、気が弱くて、愚図で、とるところもないような男だが、芯は、極《ご》く人《ひと》がよく、何でもかんでも引受けては、年中難儀ばかりしている。
 寝惚《ねぼけ》先生こと、太田蜀山人《おおたしょくさんじん》のところへ出入して、下手な狂句なども作る。恍けたところがあって、多少の可愛気はある男。
 伝兵衛が背伸びをしながら、金唐声《きんからごえ》でそう叫び掛けたが、先生は遠眼鏡の筒先を廻しながら、閑々《かん/\》と右眄左顧《うべんさこ》していられる。
 伝兵衛は、業《ごう》を煮やして、
「実際、あなたの暢気《のんき》にも呆れてしまう。いくらなんだって、正月の十六日に五重塔のてっぺんで、アッケラカンと筒眼鏡などを使っているひとがありますか。そんなところでいつ迄もマゴマゴしていると、鳶《とんび》に眼のくり玉を突ッつかれますぜ。……ねえ、先生、いったい何を見物しているんですってば。……じれってえな、返事ぐらいしてくれたっていいじゃありませんか」
 のんびりした声が、虚空から響いて来る。
「わしはいま和蘭陀《オランダ》の方を眺めておるのだて」
「うへえ、そこへ上ると和蘭陀が見えますか」
「ああ、よく見えるな」
「和蘭陀のどういうところが見えます」
「港に沢山《たくさん》船がもやっているところを見ると、どうやらへーぐ[#「へーぐ」に傍点]というところらしいな」
「こいつア驚いた。……するてえと、なんですか、向うもやっぱし正月なんで」
「日柄には変りない。ただし、向うはいま日の暮れ方だ」
「おやおや、妙だねえ。どんなお天気工合です」
「大分《ヒール》に雪《スネエウ》が降っているな」
「蒸籠《せいろ》に脛《すね》が出たたア、何のことですか」
「いや、たんと雪が降っておるというのだ。……おお、美人が一人浜を歩いている」
「えッ、美人が出て来ましたか。いったい、どんなようすをしています」
「高髷《たかまげ》を結《ゆ》って、岡持《おかもち》を下げている」
「和蘭陀にも岡持なんかあるんですか」
「それもそうだな。……これは、チト怪しくなって来た。おやおや、高下駄を穿《は》いて駈け出して行く。おい、伝兵衛、和蘭陀だと思ったら、どうやら、これは洲崎《すさき》あたりの景色らしいな」
「じょ、じょ、冗談じゃない、ひとが真面目になって聞いているのに。……そんな悠長な話をしている場合じゃないんです。……大きな声では言えませんが、実は、今日の朝方、またあったんです」
「またあったというと、……例の口か」
「ええ、そうなんです」
「すると、これで三人目か。チト油断のならぬことになって来たな」
「他人《ひと》のことみたいに言っちゃいけません。あなただって関係《かかりあ》いのあることなんです。ともかく、降りて来てください」
「なんだか知らないが、そういうわけならば、今そこへ行く」
 飄逸洒脱《ひょういつしゃだつ》の鳩渓先生、抜け上った額に春の陽を受けながら、相輪に結びつけたかかり綱伝い、後退《うしろさが》りにそろそろと降りて来られる。


          また一人の娘が

 暮から元日にかけて、しきりに流星があった。
 元日が最もはげしく、暮れたばかりの夜空に、さながら幾千百の銀蛇《ぎんだ》が尾をひくように絢爛と流星《りゅうせい》が乱れ散り、約四|半時《はんどき》の間、光芒《こうぼう》相《あい》映《えい》じてすさまじいほどの光景だった。
 また、前の年の秋頃から、時々、浅間山が噴火し、江戸の市中に薄《うっ》すらと灰を降らせるようなこともあったので、旁々《かたがた》、何か天変の起る前兆《まえぶれ》でもあろうかと、恟々《きょうきょう》たる
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