平賀源内捕物帳
萩寺の女
久生十蘭

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)靄《もや》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)神田|鍋町《なべちょう》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)てい/\
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          十六日の朝景色

 薄い靄《もや》の中に、応挙風《おうきょふう》の朱盆《しゅぼん》のような旭《あさひ》がのぼり、いかにもお正月らしいのどかな朝ぼらけ。
 出尻伝兵衛《でっちりでんべえ》、またの名を「チャリ敵《がたき》」の伝兵衛ともいう、神田|鍋町《なべちょう》の御用聞。
 正月の十六日は、俗にいう閻魔《えんま》の斎日《さいじつ》。
 商売柄、閻魔参りなどに行く義理はない。
 谷中《やなか》の方にチト急な用があって、この朝がけ、出尻をにょこにょこ動《うご》かしながら、上野|山内《さんない》の五重の塔の下までやってくると、どこからともなく、
「……おい、伝兵衛、伝兵衛」
 チャリ敵の伝兵衛、大して度胸もない癖に、すぐ向《むか》ッ腹《ぱら》をたてる性質だから、たちまち河豚提灯《ふぐちょうちん》なりに面《つら》を膨《ふく》らし、
「けッ、なにが伝兵衛、伝兵衛だ。大束《おおたば》な呼び方をしやアがって。……馬鹿にするねえ」
 亭々《てい/\》たる並松《なみまつ》の梢に淡雪《あわゆき》の色。
 ぐるりと見廻したが、さっぱりと掃き清められた御山内には、人影らしいものもない。
「な、なんだい。……たしかに、伝兵衛、伝兵衛と聞えたようだったが……テヘ、空耳《そらみみ》か」
 ぶつくさ言いながら歩き出そうとすると、また、どこからともなく、
「伝兵衛、伝兵衛……」
 あわてて見廻す。やはり、誰《だれ》もいない。
 伝兵衛、タジタジとなって、
「おい、止《よ》そうよ。どうしたというんだい、こりゃア……」
 麻布の豆狸というのはあるが、御山内にももんじいが出るという話はまだ聞かない。それにしても朝の五ツ半(九時)、変化《へんげ》の狸のという時刻じゃない。
「嫌だねえ」
 ゾクッとして、まとまりのつ
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