った。お前がこんな態《ざま》で死んだと聞いたら、お種さんは涙の壺を涸らすこッたろう。江戸ではお鳥さんが陳東海に殺されるし、その同じ日に、お前がこんなところで殺されている。唐商売《からあきない》なんぞに手を出すからこんな目に逢うのだ。……なア、利七さん、一体、お前を殺したのは誰なんだね、などと訊ねたって、お前に返事の出来るわけはないが、お前だッて生きている間は性のある男だッたから、幽霊にでもなって出て来てどうかおれに教えてくれ。むかし世話になった恩返し、きッとおれが敵《かたき》を取ッてやるから、なア、利七さん」
さすがの源内先生も、余り無残な有様に哀れを催したと見え、死骸の肩に手を掛けんばかりにして諄々《くどくど》と説いていたが、そうしようという気もなく、利七の死骸を眺め廻しているうちに、ちょっと不思議なことに気が附いた。
左手は、だらりと床の方へ垂れ下っているのに、竹倚《チョイ》の腕木にのせた右手の人差指が何事かを指示すように三尺ばかり向うの床の一点を指《ゆびさ》している。
指された辺《あたり》を源内先生が眼で辿って行くと、床に敷いた油団《ゆとん》の端が少しめくれ、その下から紙片のような白いものが覗出《のぞきだ》している。源内先生は、頷いて、
「さすがは、利七さん、つまり、あれをおれに読めと言うんだね。よしよし、待っていなさい。いま読んでやるから」
生きている人間に言いかけるようにそう言って置いて、油団の上に膝をつき、その下から四つに折った小さな紙片を引出した。
懐帳面《ふところちょうめん》の紙を引裂いたのらしく、丈夫な三椏紙《みつまたがみ》で、たぶん血であろう、端の方にべッとりと赤黝《あかぐろ》い汚点《しみ》がついている。
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わたしを殺した者は、長崎、古川町に住む、唐通詞《とうつうじ》陳東海と申す者にて候、七月十五日手前家内お種との古き因縁事に就き、是非共談合、埒《らち》を明け度き事|有之《これある》につき庭窪《にわくぼ》の蘇州庵迄出向くようとの書状を受け、捨置き難き事に候間申越せし儘其処へ出向き候、蘇州庵に着き候頃は早や五ツ半にて、月の光を頼りに唐館の奥へ進み行き候処、此部屋より燈火が漏るるに依り、戸を引開け候に如何なる次第なるや、戸口のところに陳東海が朱房の附きたる匕首を振翳《ふりかざ》して立ちはだかり居るなれば、余りの理不尽に手前も嚇怒《かくど》致し、何をすると叫びながら組付行くに、その煽《あお》りにて蝋燭の火は吹消え、真の闇となり、皆目見当も附かぬ事なれば壁際に難を避けんとする処、陳は手前の背後より抱付《だきつ》きて匕首を突刺し其|儘《まま》何処《いずく》へか逃去申候《にげさりもうしそうろう》、たいへんなる痛手にて最早余命|幾許《いくばく》も無之《これなく》と存候《ぞんじそうろう》、この様なる所にて犬畜生同様名も知れぬ屍《かばね》を曝《さら》すこと如何にも口惜しく候|儘《まま》、息のあるうちに月の光を頼りに一筆書残し申候、右に認《したた》めし條々実証也
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]長崎|本籠町《もとかごまち》 唐木屋利七
源内先生は、窓の傍で繰返し巻返しそれを読んでいたが、また利七の傍《そば》へ戻って来て、
「確かに拝見しました。……でもね、利七さん、あなたの見違いではなかッたのかね。陳東海は確かに江戸にいるのみならず、同じ日の同じ頃、江戸でお鳥さんを殺している。江戸から大阪迄は百五十里の道程《みちのり》。江戸で人を殺している人間が同じ日の同じ頃に大阪で人を殺せるわけのものではない。どうもあなたの見違いだッたと思うほかはない。さもなければ、陳東海に双生児《ふたご》の兄弟でもあって、二人で諜合《しめしあわ》せて殺《や》ッたことかも知れない。しかし、何であるにせよ、必ずわたしが追詰めてあなたとお鳥さんの敵を取ッてあげますから、それが供養だと思ってどうか成仏してください。ねえ、利七さん、あなたの骨《こつ》はあたしが長崎迄抱いて行ってあげますから」
盂蘭盆《うらぼん》の夜の出来事
検屍やら骨上《こつあ》げやら葬式やらと、福介と二人で何から何迄仕切ってやってのけ、大阪で初七日を済まし、奉行所の手続きもすっかり了《お》えてから、詳しく事情を認めて江戸の伝兵衛のところへ早飛脚《はやびきゃく》を立てた。
江戸と大阪で同じ日の同じ刻に同じ唐人がそれぞれ二人の人間を殺したというので、これがたいへんな評判になり、何処へ行ってもこの噂ばかりだッた。
どう考えても有りようもないことだが、江戸ではお鳥がはッきりと陳東海だったと言い、利七の方も、紛れもなく陳東海だときッぱりと書残している。死ぬ間際に益もない作りごとをする筈もないのだから、二人の申立は事実だと信ずるほかはない。
理窟から言うと、そんな馬鹿なことが、と頭からけなしつけることも出来るが、そうとばかり簡単に片附けられぬ節もある。えらそうには言って見るが宇宙の輪廻の中では人間の智慧などはどの道|多寡《たか》の知れたもので、世の中には理外の理というものがあって、一見、どうしても不可能としか見えぬことも、方法を以てすれば実に造作なくやって退《の》けられるのかも知れぬ。
あの日以来、七日の間、先生は暇さえあれば津国屋の離座敷《はなれざしき》で腕組をして考えていたが、今度ばかりはどうしても事件の核心を衝《つ》くことが出来ない。こんなところで何時までも首を捻っていたッてどうにもならないことなので、長崎迄の船の中でとッくり考えようと肚を決め、未解決のまま利七の骨箱を抱いて九月四日に津港《つみなと》から長崎行の便船に乗込んだ。
冬とちがって風待《かざまち》や凪待《なぎまち》もなく、二百里の海上を十一日で乗切り、九月十七日の朝、長崎に到着した。
船は神崎の端をかわして長崎の港へ入る。
長崎の山々は深緑を畳み、その間に唐風《からふう》の堂寺台閣《どうじだいかく》がチラホラと隠見《いんけん》する。右手の丘山《おかやま》の斜面《なぞえ》には聖福寺《せいふくじ》や崇徳寺《すうとくじ》の唐瓦。中でも崇福寺《すうふくじ》の丹朱の一峰門が山々の濃緑から抽《ぬき》ん出て、さながら福建《ふくけん》、浙江《せっこう》の港でも見るよう。
出島《でじま》に近い船繋場《ふなつきば》には、和船に混って黒塗三本|檣《マスト》の阿蘭陀《オランダ》船や、艫《とも》の上った寧波《ニンパオ》船が幾艘となく碇泊し、赤白青の阿蘭陀《オランダ》の国旗や黄龍旗《こうりゅうき》が飜々《ひらひら》と微風に靡《なび》いている。
山々のたたずまいも港の繁昌も、十七年前と少しも変らない。何もかもみな思い出の種で、源内先生は、深い感慨を催しながら舷側に倚《よ》って街や海岸を眺めていたが、そのうちに頸《くび》に下げた骨箱に向って、
「さあ、利七さん、長崎へ帰りました。ここはあなたの生れ故郷。さぞ懐かしいこったろう。いや、口惜しく思いなさるだろう。生きて帰れる身が唐人づれの手にかかってこんな姿になってしまったんじゃ、あんたも口惜しかろう。間もなくお種さんに逢わせてあげますが、こういうあなたの姿をお種さんが見たらどのように歎くかと思い、それが辛《つら》くてなりません」
福介も、悲しそうな顔をして、
「また愚痴になりますが、わたくしめらも忰《せがれ》や娘に先立たれ、その辛さは骨の髄まで知っております。いきなりこんな姿をごらんになったら、まあ、どのような思いをなさることやら」
「役にも立たぬ繰言を繰返していたってしようがない。どうやら船繋《ふながかり》も済んだようだから、そろそろ上陸の支度をしなさい」
迎いの小艀《サンパン》に乗移って陸へ上り、そこから真直に本籠町《もとかごまち》へ行く。
長崎屋藤十郎の門まで行くと、十二間間口の半《なかば》まで大戸をおろし、出入りする人の顔付もひどく沈み切って、家の様子も何となく陰気である。
源内先生は、福介を後《うしろ》に従えて土間へ入り、名を告げて案内を乞うと、間もなく奥から蹌踉《よろけ》出して来た、長崎屋藤十郎。
昔は藤十郎の恵比須顔《えびすがお》と言われたくらいの肉附のいい福々しい顔が、こうまで変るかと思われるような窶《やつ》れ方。額には悲しみの皺を畳み、頬は痛苦の鉋《かんな》で削取《けずりと》られ、薄くなッた白髪の鬢をほうけ立たせ、眼は真ッ赤に泣き腫れている。腰を曲げ、瘧《おこり》にかかったようにブルブルと両手を震わせながら、よろぼけよろぼけ、見る影もないようすで上框《あがりがまち》まで出て来て、そこへべッたりとへたり込むと、
「貴君《あんた》、平賀さまですと。ああ、夢のごたる。ほんとのこツと思われんと」
と言って、両手を顔にあてて泣き出した。
源内先生は、平素の無造作に似ず、叮嚀《ていねい》に頭を下げて、
「早いようでも、数えればもう十七年。わたくしもまるで夢のような気持がいたします。四季のお便りに、いつもお元気の体を拝察して欣《よろこ》ばしく存じておりましたが、いつもご健勝で何より。その節はいろいろとお世話に相成りまして有難うございました。この度はご縁あってまた当地へ罷《まか》り下りましたが、なにとぞよろしく」
藤十郎は、はいはい、と頷くきりで泣くのを止めない。
思うに、江戸からお鳥の変死の報知が届き、それで一家中が悲嘆の涙に沈んでいるのであろう。そういう折にまた娘婿のこの哀れなさまを見せ、その無残な死にざまを話さねばならぬと思うと、先生も些《いささ》か辛すぎて身を切られるような心持がする。我ともなく首に掛けている骨箱を道行の袖で蔽い隠すようにしながら、
「お見受けするところ、何か非常なご不幸でもあッたようす。お支障《さしつかえ》なければ、どうかこの源内に……」
藤十郎は、片手で涙を抑えながら、
「はいはい、申上ぎょうですが、こぎゃんとこではお話も出来ませんけん、さあ、どうかあッちへ……」
福介を土間の床几《ばんこ》に残して、見世庭《みせにわ》から中戸《なかど》を通って奥座敷へ導かれてゆく。
檐《のき》には尾垂《おだれ》と竹の雨樋が取付けてあり、広い庭に巴旦杏《はたんきょう》やジャボン、仏手柑《ぶしゅかん》などの異木が植えられ、袖垣《そでがき》の傍には茉莉花《まつりか》や薔薇花《いけのはな》などが見事な花を咲かせている。
座に着くと、藤十郎は膝の上へ顔を俯向けながら、
「わたしのような、こぎゃん不幸者は唐《から》天竺《てんじく》まで捜したッてまたとあろうたア思われまッせん。同じ日の同じ刻に江戸と長崎で姉娘と妹娘が唐人《あちゃ》めらの手にかかって殺《あや》められるなンて、そぎゃんことが、この世にあり得ることでッしょうか」
源内先生は、ひえッと息を引いて、
「まあ、ちょッとお待ちください。いま伺っていますと江戸と長崎で同じ日の同じころに姉娘と妹娘が、と仰言いましたが、すると、何んですか、お種さんの方にも何か間違いが……」
藤十郎は、頷いて、
「そン通りでございます。姉娘のお種も同じ七月十五日の盂蘭盆《うらぼん》の夜、古川町|闕所《けっしょ》屋敷で唐通詞の陳東海に匕首で脊骨の下を突ッぽがされて死んでしまいました」
先生は思わず膝を乗出して、
「それは、ほ、ほんとうのことですか」
「わたしが何ンの虚言《そらごと》を言いまッしょうか。本当《しょう》のことでござります」
「陳東海が殺したと誰が言いました」
「お種がじぶんの口から申しました」
「煩《くど》いようですが、確かに、陳東海だと言いましたか」
「そン通りでございます」
「それを聞いたのは誰でしたか」
「このわたしでござります」
同じ七月の十五日、江戸と大阪と長崎で三人の男女が同じ人間に同じ方法で殺害された。
庭窪の蘇州庵で無残な利七の死に態《ざま》を見たとき、何等かの方法でやれぬこともないと思い、また、ひょッとしたら陳東海の双生児《ふたご》の兄弟が諜合《しめしあわ》せてやったことかとも考えていたが、ここに到っては源内先生も唖然
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