ので、そるけんで陳は悄々《しゅんしゅん》帰って行きました。これで断念《あきらめ》るかと思いのほか、また翌年の夏船でやって来て、ひちくどく纏いつきますけん、お種も腹を立て、云分《いいぶん》つくる気なら勝手にしなされ、あんたごたるひとはもう愛《ええら》しかとも何ンとも思っておりまッせん。もうあッちのとこへ来らッしゃんな、ときッぱりと拒絶《けんつき》いたしました。その秋にお種は利七のところへ輿入《こしい》れいたしましたが、陳はそれでも断念《あきらめ》兼ねたと見えまして、それから足掛三年|唐人屋敷《かんない》に居住《いす》んでおりましたが、さすがに気落《らくたん》して、何時の間にやら音沙汰なしに帰ってしまいました。……それからまた二年おいた一昨年《おととし》の秋、ひょッくりやって参りまして、そン節の詫言《かねごと》をさまざまにいたし、お種さんの婿殿《むこどん》が唐木《からき》の商売《あきない》をしておるというのであッたら、寧波《ニンパオ》の自分の山に仰山《ぎょうさん》唐木があるによって、欲しいだけ元価《もとね》で積出させまッしょう、と申します。利七も甚《え》ッと喜んで以来陳と友達同士のようになって暮しておりました。以前のことはわたしと陳とお種の三人の腹におさめ、生涯無かったことにすると約束をいたしました。何もかも済んだこととばっかり思うておりましたところ、思いもかけないこぎゃん酷《むご》たらしい始末になったとでござります。それにしても、お種だけならいざ知らず、科《とが》もゆかりもないお鳥まで殺《あや》めてしまうとは、何たる非道か奴でござりまッしょうか。鬼というてもこうまで残忍《むご》かことはいたしますまい」
「いや、よく解りました。それで、お種さんは一体どんな風にして殺されたのですか」
「最初に見つけましたのは古川町の火の番なのでござりますげな。通詞は江戸へ上ってい、留守居もおらぬ筈の闕所屋敷からチラチラと灯が見えますけん、悪漢《いたろう》でも入込んでいるのかと思うて調べに入りますと、お種が脊中に朱房のついた唐匕首《からあいくち》を突刺されて俯伏せに倒れております。吃驚《びっくり》して乙名《おつな》の宅へ馳付《はせつ》け、乙名からわたしどもへ知らせがありましたけん、動顛して駈付けて見ましたれば、お種はまだ虫の息で、あッちを殺したのは陳ですけんで、是非《しゃッち》、敵《かたき》ば取っておくんなしゃい、と申しました。細かしく訊ねますと、陳が江戸へ上る日、お種に申すには、あんたから貰うた手紙がわたしの居間の箪笥の中にひと括《くくり》にしてあるけん、盂蘭盆の夜の五ツ半頃、みなが焔口供《えんくぐ》の法会《ほうえ》に唐寺へ行った頃を見澄ましてそっと取りに来い、ということで、お種もかねがねそればッかり気に病んでおッたのでしたけんに、約束通り、唐人《あちゃ》がみな寺へ上った頃出かけて行って陳の居間へ入り、燭台の蝋燭に火を点して見ると、誰もいないと思った闇の中に、陳が朱房のついた匕首を振上げて物凄い顔で突ッ立っております。そるけんで、お種は仰天してバタバタと廊下まで走出したところ、陳が背後《うしろ》から追付いて無残に匕首で突刺したのだと申しました」
 源内先生は、口を挟まずに聴いていたが、藤十郎が語りおわると、今迄自分の後《うしろ》に差置いてあった骨箱を藤十郎の膝の前に据え、
「さぞ、お驚きのことと思いますが、秘《ひ》し隠して置くわけにはいきません。利七さんは、大阪でこんなことになッてしまいました。月も日も刻も同じ七月の十五日の夜、庭窪の蘇州庵という破《や》れ唐館で同じように朱房の匕首で背中を後から突かれて死んでおりました」
 聞くより、わッと泣き出すかと思いのほか、藤十郎は、眼を繁叩《しばたた》きながら、頷いて、
「案の定、やッぱり利七も。……江戸と長崎で二人が殺《あや》められた以上、どッち道、利七も助かる筈はないと、疾《と》ッくに覚悟を決めておりました。……これが利七でございますか。可愛いや可愛いや、何ンの罪科《つみとが》もないお前までこんな姿になってしもうた。何ンでわたしも殺さんのでッしょう。そうしたら、いっそ楽しかるべきを」
 ホロホロと、膝へ涙を落した。


          銀燭台の蝋燭の灯

 翌日の九月の十二日は諸聖祭《トドロス・サントス》の日で、蘭人は死蘭人《しらんじん》の墓詣《はかまい》りをし、天守堂に集まって礼拝する。
 十五日は阿蘭陀八朔《オランダはっさく》の日で、甲必丹《カピタン》は奉行所を訪問して賀詞《がし》を述べ、それから代官、町年寄などの家を廻って歩く。蘭館では饗宴の席を設け、奉行並に奉行所役人、通詞《つうじ》出島乙名《でじまおつな》、その他友人、蘭館出入りの者を招いて盛な酒宴を催してこの日を祝う。
 甲必丹《カピタン
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