住んでいる林明斎《りんめいさい》の宅へ立廻ったところを難なく捕縛された。
 陳東海は、宝暦の初めごろから唐船の財副《ざいふく》になって交易のため幾度となく長崎に来、宝暦十一年から明和二年迄の四年の間、長崎の唐人屋敷に住んでいた。その年の春、急に故郷の浙江県《せっこうけん》へ帰り、二年置いた明和五年の春、また長崎へやって来たが、たいへんに日本語が巧《たくみ》なので長崎奉行から唐通詞を依頼され、古川町《ふるかわちょう》の闕所屋敷《けっしょやしき》を貰ってそこに住んでいた。
 陳東海は浙江県|寧波《ニンパオ》の大金満家の次男で、学士の試験に落第してから志を変えて交易に身を入れるようになった。尤も、それとても半分道楽のようなもので、日本の景物に親しむのが主な目的だった。たいへん日本の風儀を好んで、寧波《ニンパオ》にある自分の家は日本風の二階造りにして畳を敷き、日本の膳椀食具《ぜんわんしょくぐ》を使い、烹調料理《ほうちょうりょうり》の品味もすべて日本の儘にやっていた。
 家柄のある家に生れたので眉目秀麗《びもくしゅうれい》で、如何《いか》にも貴公子然としており、立居振舞も鷹揚で、また品がよく奥床《おくゆか》しかったから、己惚面《うぬぼれづら》をした美男の評判のある長崎の小小姓《こごしょう》などは足元にも寄れぬくらいだった。
 何と言っても、通詞という官位を持っているのだから番屋調べをするというわけには行かない。伝馬町の揚屋《あがりや》に入れて手酷《てきび》しく調べ詰めたが、どうしても自分が殺したとは言わない。
 丁度その時刻には、自分は市村座《いちむらざ》で芝居を観ていたという。芝居茶屋へ訊い糺《ただ》して見ると、来た時刻も帰った時刻もちゃんとウマが合っている。
 茶屋へ入って桟敷《さじき》へ通ったのが正午《ひる》過ぎの八ツで、茶屋を出たのが終演《はね》る少し前の五ツ半。如何にも眼立つ服装《なり》をしているのだし、多分に祝儀をはずんだので、茶屋でははッきりと覚えていた。
 しかし、桟敷で身装《みなり》を変えて小屋抜けをするぐらいは造作もなく出来ることなのだから、これだけでは嫌疑が晴れようわけはなく、揚屋《あがりや》にそのまま留められたが、陳東海は、誰か自分によく似た男が自分に成澄《なりす》ましてこんなことをしたのに違いないと言張って、どうしても承服しないのだった。
 源内先生
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