えまわるより、今のうちに聞くだけのことを聞いて置く方がいいと思ったので、左腕を背へ廻して女の上身を引立て、膝でそっと支えてやって、
「お内儀《ないぎ》、お内儀、何をこれしきの傷。死にはしないから、気を確かに持ちなさい」
「は、はい……」
 薄ッすらと眼を開けたが、すぐまた、がッくりとなるのを引起すようにして、乙平、
「弱ッちまッちゃいけない。それじゃ亭主に逢えんぞ。確《し》ッかりしなさい」
 亭主という声が届いたのか、起上ろうと両手を泳がせながら、
「だい、じょうぶ……」
「おう、元気が出たな、物が言えるか」
 うなずいて、
「い、言えます」
「殺したのは誰だ」
「……陳東海……」
「この家の主人だな」
 また、こッくりと頷いて、
「……襖《ふすま》の向うから、あたしが挨拶しますとね、襖を明けてお入りッて言いますから、何の気もなく、襖を明けますと、どうしたというのでしょう。陳さんが朱房のついた匕首を振上げて、喰いつくような顔付で襖のすぐ傍に仁王立ちになッているンです。……あたし、あッと驚いて、逃げ出そうとすると、追かけて来て、いきなり後《うしろ》からこんな酷《ひど》いことを……」
「何か恨みを受ける覚えでもあるのか」
 もう精が尽き果てたのか、見る見るうちに顔が真ッ白になって、小網町、廻船問屋、港屋太蔵の妻、鳥と答えるのがようよう。後は何を訊いても頷くばかりだった。そのうちに手足に痙攣《ふるい》が来て、吃逆《しゃっくり》をするような真似をひとつすると、それで縡《ことぎ》れてしまった。
 乙平が番屋へ訴え出、番屋から北番所《きた》へ。
 時を移さず、与力|小泉忠蔵《こいずみちゅうぞう》以下、控同心|神田権太夫《かんだごんだゆう》。それからお馴染のお手付御用聞、土州屋伝兵衛、引連れて出役。
 手を尽して調べて見たが、格別乙平の訴えより変ったところもない。陳東海はお鳥を突刺して置いて自分は勝手口から飛出して行ったものらしい。その形跡ははッきりと残っている。もう一つは手口が少しちがう。日本人なら突ッ通すか刳《えぐ》るか、この二つのうちだが、傷口を見ると、遠くからでも匕首を打込んだような、しゃくッたようなようすになっている。
 殺された当人がはッきりと陳東海だと言ったのだから、これ程確かなことはないわけで、その日の夜遅く、同じく唐通詞《とうつうじ》で八官町《はっかんちょう》に
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