い》という謡《うたい》の先生の家で、向うにも二十坪ばかりの庭があり、向うの梅の枝が垣根を越してこちらへ張り出し、隣の渋柿がこちらの庭に落ちるといったぐあい。垣根とは名ばかりで一つ庭のようなもの。
 乙平は気骨の折れる士勤《さむらいづとめ》をして肩を凝らすより、いっそ謡でも唱って気楽に、と自分から進んで浪人したくらいの芯からの江戸人。箱根を越えたことがないのが自慢なくらいなのだから、仮宅にもせよ垣根の隣へ唐人が越して来たのを気味悪がって、生来の潔癖から垣根の方へも寄らないようにしていた。
 丁度六ツ半頃、庭に盥《たらい》を出させて萩《はぎ》の間《あいだ》で行水《ぎょうずい》を使っていると、とつぜん隣の家で、きゃッという魂消《たまぎ》えるような女の叫び声が聞え、続いて、
「あ痛っッ、……陳さん、あなた、何で、あたしを、こんな目に……。あれえッ、どなたか、どうぞ……」
 巴《ともえ》になって争っているような激しい足音がして、
「……どなたかッ、……どなたかッ……」
 と、言っているうちに、女の声は段々かすかになる。
 乙平は捨てて置けなくなったので、手早く身体を拭いて帷子《かたびら》を引掛け、刀を掴み取る暇もなく素跣足《すはだし》のまま庭へ飛び下り、黒部の柴折戸《しおりど》を蹴放《けはな》すようにして隣の庭へ飛び込んで行った。
 沓脱石《くつぬぎいし》から一足飛びに座敷の中へ入って見ると、眼も当てられぬ光景になっていた。
 落してまだ間があるまい。眉の跡が若葉の匂うよう。薩摩上布《さつまじょうふ》に秋草の刺縫《ぬい》のある紫紺《しこん》の絽《ろ》の帯を町家《まちや》風にきちんと結んだ、二十二、三の下町の若御寮《わかごりょう》。
 余り見馴れない、朱房のついた銀※[#「木+霸」、第3水準1−86−28]の匕首で左の肩胛骨《かいがらぼね》の下のあたりをの[#「の」に傍点]深く突刺されたまま、左脇を下にして鬢を畳に擦りつけ、
「あッ……、たれか、助けて、ちょうだい……たれか、はやく。……死にたくないから。……あなた、あなた……」
 それでも膝を乱すまいとして両膝を縮め無心に裾をかばっている。哀れなので。
 乙平は一目見て、これは、もういけないと思った。気儘から謡の先生などをして暮しているが一廉《ひとかど》の心得のある武士だから、生《なま》じい生命を庇《かば》おうと狼狽《うろた》
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