竹藪の向うの農家からときどき長閑《のどか》な※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]《にわとり》の声が聞える。
江戸を七月二十日に発ち、先年江戸へ上るとき世話になった駿河本町《するがほんまち》二丁目、旅籠屋《はたごや》菱屋与右衛門《ひしやよえもん》方へ先度《せんど》の礼かたがた三日程泊り、八月二十四日に京都へ着いて山科《やましな》の三井八郎右衛門《みついはちろうえもん》の四季庵《しきあん》でまた三日ばかり、引止められるのを振切ってこれから大阪へ下ろうという都合《つもり》。
大阪には、先年長逗留の間、先生の創見にかかわる太白砂糖《たいはくざとう》の製法を伝授して大いに徳とされ、富裕《ふゆう》・物持《ものもち》の商人に数々の昵懇がある。
先生が江戸へ発《た》とうとする時、生涯衣食のご心配はかけませんからどうぞ大阪にお止まりを、と言って皆々袖を引止めた程だったから、今度また先生が大阪へ下ったと知ったら、誰も彼もと押寄せて下にも置かぬ款待《もてなし》をするにちがいない。先生にしたってそれは嬉しくない筈はないので、本来ならばもう少し浮々《うきうき》してもよかるべきところを、見受けるところ先生の面《おもて》には一抹の憂色があって、トホンとした中にも何処《どこ》か屈託あり気な様子が見える。
源内先生の憂悶《ゆうもん》の種はこんなことだった。
宝暦《ほうれき》二年、二十一歳で長崎に勉強をしに行った時、長々|寄泊《きはく》して親よりましな親身な世話を受けた本籠町《もとかごまち》海産問屋、長崎屋藤十郎《ながさきやとうじゅうろう》の妹娘の鳥《とり》というのが、江戸日本橋|小網町《こあみちょう》の廻船問屋|港屋太蔵《みなとやたぞう》方へ嫁に来ていて、夫婦仲もたいへんに睦《むつ》ましかったのだが、このお盆の十五日、ひわという下女を連れて永代へ川施餓鬼《かわせがき》に行った帰途《かえりみち》、長崎で世話になった唐人《あちゃ》さんが、今、江戸へ上って来ているから、一寸、挨拶をして来ると言って、新堀町《しんぼりちょう》で女中を返し、自分ひとりで神田|和泉町《いずみちょう》の陳東海《ちんとうかい》の仮宅《かりたく》へ訪ねて行ったところ、どういういきさつがあったのか、陳に殺されてしまった。
六ツ半といっても、夏のことだからまだ明るい。
陳東海の仮宅の垣根の隣が伊草乙平《いくさおつへ
前へ
次へ
全23ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング