の気を沈ませるのはこのことなのである。
お鳥の姉婿《あねむこ》、つまりお鳥の義兄が商用で長崎から大阪へ上り、いま川口の宿にいる。お鳥が陳東海に殺されたことはもう早文《はやぶみ》で届いている筈だが、又もや出尻伝兵衛に引張り出されてこの事件に立合った関係上、義兄《あに》の唐木屋利七にお鳥の無残な最期の様子《さま》を物語らなければならないことが情けない。利七は義妹のお鳥を自分の血を分けた妹のように可愛がっていたのだから、どんなにか悲しむかと思うと、気が滅入って思わず足の歩みものろくなる。日頃軽快洒脱な源内先生が山科街道の砂埃を浴びながらトホンとした顔で歩いていられるのは、こういう次第に依ることだった。
唐館蘇州庵《とうやかたそしゅうあん》の竹倚《チョイ》
大阪、川口の賑い。
菱垣番船《ひしがきばんせん》、伏見《ふしみ》の過所船《かしょぶね》、七村の上荷船《うわにぶね》、茶船、柏原船、千石、剣先《けんさき》、麩粕船《ふかすぶね》。
艫《とも》を擦り、舷《ふなべり》を並べる、その数は幾百艘。檣《ほばしら》は押並び押重なって遠くから見ると林のよう。出る船、入る船、積荷、荷揚げ。沖仲仕が渡《わたり》板を渡って筬《おさ》のように船と陸とを往来《ゆきき》する。
岸には大八車にべか[#「べか」に傍点]車、荷駄《にだ》の馬、負子《おいこ》などが身動きもならぬ程に押合いへし合い、川の岸には山と積上げられた灘の酒、堺の酢、岸和田の新綿、米、糖《ぬか》、藍玉《あいだま》、灘目素麺《なだめそうめん》、阿波蝋燭、干鰯。問屋の帳場が揚荷の帳付《ちょうつけ》。小買人が駆廻る、仲買が声を嗄《か》らす。一方では競売《せり》が始まっていると思うと、こちらでは荷主と問屋が手を〆《し》める。雑然、紛然、見る眼を驚かす殷賑《いんしん》。
源内先生と福介はこの大混雑にあッちから押されこッちから突かれ、揉みくちゃになりながらようやく通り抜け、利七の常宿になっている津国屋喜藤次《つのくにやきとうじ》の門《かど》へ辿りつく。
源内先生、さすがに魂消《たまげ》たような顔で、
「福介や、どうもえらい騒ぎだな。ここまで辿りつくのが命がけだった。まご/\すると踏み潰《つぶ》されてしまう」
「初めて見る大阪の繁昌。上方の人は悠長だと聞きましたが、それは真赤な嘘。わたくしは頭を三つばかりも叩か
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