れました」
「いやはや、どうも」
 道行の皺を引伸ばしながら土間へ入り、長崎の唐木屋利七が泊っている筈というと、女中は怪訝な顔して内所へ入って行ったが、間もなく主人の喜藤次《きとうじ》が出て来た。
 上框《あがりがまち》に膝をついて、
「ようお越しやす。……へえ、唐木屋さんは如何にもわたくしどもへ泊っておいででござりますが、先月の十五日に庭窪《にわくぼ》の蘇州庵たらいうところへ行くといやはりましてお出掛けになッた切り、かれこれもう四十日近くにもなるのだすが、今以《いまもっ》てお帰りなさりまへんので、わたくしどもでもご案じ申上げておるのでござります。お荷物は一切そのままになっておりますによって、どうでもそのうちにお帰りになるものと存じます。尤もな、お発《た》ちになる時、ひょっとしたら大津の方へ廻るやも知れんと、そう仰言ってでござりましたゆえ、多分、そッちゃの方へでもお廻りになったのかと存じますが……」
 と言って、帳場の状差を指《ゆびさ》し、
「ごらんの通り、長崎やお江戸から赤紙付やら早文《はやぶみ》やらあの通り仰山《ぎょうさん》に届いておりますんだすが、当の唐木屋さんの行先がわからんことだすさかえ、どうしようもござりませんで、ああしてわたくしどもでお預りしてあるのでござります。……あなたさまも、あの、やッぱり長崎の方から、……」
「いや、わしは江戸から来たのだが、一寸《ちょっと》利七さんに所用があってお寄りしたようなわけだッたんだが、居ないというんじゃどうしようもない。先月の十五日に出たッ切り帰らない人をここで何時《いつ》までも待っているわけにもいくまいから、ちょっと一と筆書残して行くことにしよう」
 源内先生は、矢立と懐紙を取出して筆を走らせているうちに何を思ったか筆を止め、自分の額を睨め上げるようにしながら何事か熟思する体だッたが、急に唸るような声で、
「うむ、こりゃいかん。よもやとは思うが、ことによればことによる。ひょっとすると……」
 わけの判らぬことを独《ひとり》でグズグズ言っていたが、主人の方に膝を向け変え、
「唐木屋が出て行くとき何か変ったことでもありませんでしたかな」
 主人は、嚥《の》みこめぬ顔で、
「へえ、格別、変ったこともござりませなんだが。……朝の四ツごろ使屋《つかいや》が封じ文を持って来まして、唐木屋はんはそれを読むと、急にこう厳《き》つウ
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