い顔付にならはりまして、間もなくそそくさとお出かけになられましたが……」
 源内先生は、セカセカと立ち上って、
「ご亭主、わしはな、急な用事でちょっと出かけて来るから、わしの荷物とこの供を預って貰います。では、ちょっと」
 挨拶をするのももどかしそうに前のめりになって津国屋の門を飛出して行った。
 それから二刻《ふたとき》ばかり後、源内先生は淀川堤に沿った京街道を枚方《ひらかた》の方へセッセと歩いて行く。何か余程気にかかることがあると見えて、時々思い出したようにブツブツと独言《ひとりごと》をいうかと思うと、急に立止って腕組をする。見るさえ気の重くなるようなようすである。
 一面の萱葦原《かやあしはら》で長雨の後のことだからところどころ水浸しになり、葦の間でむぐっちょが鳴いている。
 川の向うには緩《ゆる》い丘の起伏がつづき、吹田《すいた》や味生《みしょう》の村々を指呼《しこ》することが出来る。
 源内先生は、堤の高みへ上り手庇《てびさし》をして、広い萱原《かやはら》をあちらこちらと眺めながら、
「先刻《さっき》、聞いたところでは、もうそろそろ蘇州庵というのが見えねばならぬ筈だが、ただ一面、茫々の萱葦原。一筋道だから道に迷う筈もないのだが」
 と、呟いていたが、それからまた一丁ばかり堤の上を歩いて行くと、赤松林の向うに緑青色《ろくしょういろ》の唐瓦《とうが》を置いた棟の反《そ》った支那風の建物が見えて来た。檐《のき》に風鐸《ふうたく》をつるし、丹塗《にぬり》の唐格子の嵌《はま》った丸窓があり、舗石の道が丸く刳《く》ッた石門の中へずッと続いている。源内先生は、
「おッ、あれだな」
 と呟きながら、呆気《あっけ》に取られてその方を眺めていたが、
「杭州《こうしゅう》から福県《ふくけん》のあたりを荒し廻った海賊の五島我馬造《ごとうがまぞう》が隠居所に建てた唐館だそうだが、それにしても酔狂にも程がある。どちらを見ても葦ばかり、一向眺めとてもないこんな湿地に何のつもりであんなものを押ッ建てたのだろう。海賊なんてえものは変ったことをするものだ」
 と、独言をいっていたが、急に首を振り、
「いやいや、そうじゃない。堤を越えるとすぐ淀川。まわりに人家とてもないのだから、どんな芸当でも出来そうだ。夜に紛《まぎ》れて上荷《あげに》船で密貿易の品を運び上げ、よくないことでもしていたのに違い
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