うしたんだと」
「いいえ、別にどうもこうもありゃしません」
「そう突っ放すもんじゃない。だいぶ面白そうな話だったじゃないか。……それで、四人はたしかに里春の声を聞いたというんだな」
伝兵衛は、心の中《うち》で北叟笑《ほくそえ》みながら、さあらぬ体で、
「ええ、そうなんです。……練出すときはさほどでもなかったが、追々《おいおい》陽がのぼるにつれて、象の胎内は蒸《む》せっかえるような暑さになった。ひっくり返えられては困ると思って、師匠大丈夫か、と交るがわる声をかけると、里春は、その都度《つど》、あいよ、大丈夫。山王さまの氏子が、このくらいの暑さに萎《なえ》たとあっちゃ、江戸ッ子の顔にかかわる、なんて元気な返事をしたそうです」
源内先生は、怪訝そうな顔で、
「なに、誰が返事をしたんだって」
「誰がって、里春がでさア」
「こりゃちと面妖《めんよう》だな。わしの推察《みこみ》じゃ、里春は、練出さない前に殺されていたはずなんだが、死人が口をきくというのはどういうものだろう」
「源内先生、あなたはひどく見透したようなことを仰言《おっしゃ》いますが、今も言ったように、四人がちゃんと里春の声を……」
「それはわかったが、聞いたということに証拠があるか。あったら出して見せろ」
「そんな無理を仰言ったってしようがない」
「ほら、見ろ、こう突込まれただけでよろけるようなチョロッカなことじゃ何の足しにもなりはしない。それくらいのことなら四人の口合いでも出来ることだし、ひょっとすると、そのうちの誰かが里春の声色《こわいろ》を使ったのかも知れない。足へ入ってる四人は、お互いに姿が見えないのだから、小智慧の廻る奴なら、そのくらいのことはやってのけるだろう」
「まア、そう言えばそうですが、ここに一つ、どうしても定太郎に逃《のが》れられない弱い尻ッ尾があるんです」
「尻ッ尾とは、どんな尻ッ尾だ」
「この象の拵物《こしらえもの》は、佐渡屋の親父が洋銀《ようぎん》の思惑であてた年、ちょうど麹町の年番に当ったのでポンと千両投げ出して先代の美濃清に作らせたものなんですが、その時、佐渡屋が美濃清に、何か人にわからないような細工をそっと一ヶ所だけ拵えておいてくれと頼んだ」
「なるほど」
「美濃清は何をしたかと思うと、後の右脚の附根を丸刳《まるぐり》にして合口仕立《あいぐちじた》てにし、そこから胎内へはいって行けるように拵えておいたんです」
「いったい、何のためにそんな子供染みた真似をしたのだ」
「象の胎内潜りをしてひとを驚かせようなんてえのじゃない。そんな茶気《ちゃき》のある親爺じゃないんです。元文《げんぶん》以来の御改鋳《ごかいちゅう》でいずれ金の品位が高くなると見越したもんだから、田舎を廻って天正一分判金《てんしょういちぶはんきん》や足利時代の蛭藻金《ひるもきん》、甲州山下一分判金などを買い集め、月並みの金調べの眼が届かないように、そいつをそっと象の胎内にしまい込んでおいたんです。つまり、これで何年後かに大思惑をする肚……」
「ありそうなことだな」
「土蔵一つ造ると思えば、千両は安いもの。祭礼の象の曳物《ひきもの》の腹の中に万という小判が隠してあるとは誰も気がつかない。左前になりかかって家の中は火の車なんてえのは真赤な嘘。……定太郎と織元の娘を縁組みさせ、結納の三千両で息を吹きかえしたと見せ、たくし込んでおいた古金《こきん》でそろそろ思惑をはじめようというのが実情なんです。……ところが、象の右の後脚のからくり[#「からくり」に傍点]を知っているのは四人の中では定太郎だけ。これは申上げるまでもない。……そもそも、里春を象の腹の中へ入れご上覧《じょうらん》の節、象の腹の中で小唄をうたわせて、アッといわせてやろうなんてえ発議したのは定太郎なんだから、こりゃアどうも抜き差しがなりません」
「くどい男もあればあるもの。何のためにそんな手の籠んだ真似をしたのだ」
「言うまでもないこってしょう。もう間もなく縁組みをしようというのに、里春の纏《まと》いつきが欝陶しくてたまらない。どんなことがあっても、じぶんに疑いがかからないような方法で……、まかり間違ったら、美濃清に全部ひっかかるように充分練りに練って仕組んだことなんです」
「わかったようなわからないような変なぐあいだな。そんなことで、じぶんに疑いをかけられずにすませられるだろうか」
「だって、そうだろうじゃありませんか。あの沢山の人眼《ひとめ》の中を練りながら、その腹の中の人間を殺せようとは誰も考えつかない。行燈下の手暗がり。そこを狙ってやったことなんです。昨日の白々《しらじら》明け、背中へ穴をあけて象の中へ里春を下し込むとき、定太郎は、じぶんだけわざとその場にいなかった」
「いよいよ以てわからなくなった。……里春を象の中へ入れるとき、その場に定太郎がいなかったとすれば、里春を殺したのは、定太郎ではないわけだ」
「こりゃア驚いた、先生もずいぶんわからない。今も言ったように、四人の中で、定太郎だけが脚から象の胎内へはいって行けるんですぜ」
「入って行けないとは言わないが、象を担ぎながらひとは殺せない。それに、菘庵が里春が二刻前に死んでると言った事実だけは、どうしたって動かすことが出来ないのだ。俺は、かならずしも定太郎が殺したのではないと言わないが、里春が殺されたのは、何といったって練出す前だったことだけはまぎれもない」
「すると、血の方はいったいどうなります。……どうしたって永田馬場を曳出す前に沁《し》み出していなければならないはずでしょう」
「何でもないようだが、そこに、この事件のアヤがある。……はてな」
源内先生は、腕組をして、ひどくムキな顔をして考え込んでいたが、間もなく、ポンと横手を拍《う》って、
「伝兵衛、わかった! 里春を殺したのは、定太郎でもなければ、担呉服でもない。いわんや、植亀などではない。こりゃアやっぱり美濃清の仕業だ」
「そ、そりゃ、いったい、どういうわけです」
「おい伝兵衛、そもそもどういう理由によって象が胸から血を滴《た》らした。……里春は象の腹の窪みの中で死んでいたというから、血が滲み出すなら胸からなどではなく腹から滴《したた》るはずだ。このわけが、お前にわかるか」
伝兵衛は、面喰って、
「どうも、だしぬけで、あっしには、何のことやら……」
「なぜ腹から血が滴れないかと言えば、外へ血が滲み出さないように、あらかじめちゃんと支度がしてあったからだ。わしの考えでは、ちょうど血の溜りそうな象の腹の内側を桐油張《とうゆば》りかなにかにして置いたのだと思われる。……ところが、美濃清は、象が梨の木坂を降りることをうっかり計算に入れなかった。……天網恢々《てんもうかいかい》、象が梨の木坂を降りた拍子に腹に溜っていた血がみな胸のほうへ寄ってゆき、計らざりき、思いもかけない手薄なところから滲み出してしまったというわけだ。上手《じょうず》の手から洩れるというのはこの辺のことを言うのだろう。これから推すと、美濃清は、やはり象の後の脚のからくり[#「からくり」に傍点]を知っていたんだな。……言うまでもない、こりゃア、恋の怨みで定太郎を突き落すための仕業なのさ」
「すると、美濃清は、いつ里春を殺ったのでしょう」
「たぶん、朝鮮人が寄ってけたたましく前囃子《まえばやし》をはじめたころででもあったろうよ。……論より証拠、のっぴきならないところを見せてやる」
と言いながら、象の腹のほうへ寄って行き、檳榔子塗《びんろうぬり》の腰刀を抜いて無造作にガリガリと胡粉を掻き落していたが、そのうちに手を休めて得意満面に伝兵衛のほうへ振りかえり、
「どうだ、伝兵衛。ここへ来て見ろ。象の下ッ腹に、この通り桐油《とうゆ》を五枚|梳張《すきば》りにして、その上を念入に渋《しぶ》でとめてある。象の腹で金魚を飼いやしまいし、こんな手の込んだことをする馬鹿はない。それに、ひと眼見てわかる通り、これは去年|一昨年《おととし》のものじゃない。つい最近にやった仕事。……なア、伝兵衛、こんな仕事が出来るのは、四人のうちで美濃清だけ」
「恐れ入りました」
源内先生、ニヤリと笑って、
「お前が恐れ入ることはないさ。……しかし、これだけじゃ、美濃清の首根ッ子を押えるわけにはゆかない。親父のやったことで私は知りませんと言われたらそれっきり。……敵を謀《はか》るはまず怖れしむるにある。……棒を持った象の番人などはみんな引っ込めてしまって、象が胸から血を滴らしたのは何故だろう何故だろうと、何気ないふうに触れて歩け。かならず美濃清が象を焼きに来る」
夕方からとの曇《ぐも》って星のない夜。
まわりは空地なので、祭礼《まつり》の提燈の灯もここまではとどかない。
蓬々《ぼうぼう》の草原に、降るような虫の声。
濃い暗闇《やみ》のなかに墨絵で描いた松が一本。
その幹へさしかけにした葭簀囲いの間から、闇夜にもしるく象の巨体が物の怪《け》のようにぼんやりと浮きあがっている。
祭礼《まつり》のさざめきもおさまって、もう、かれこれ丑満《うしみつ》。
蛍火《ほたるび》か。……象の脚元で火口《ほぐち》の火のような光がチラと見えたと思うと、どうしたのか、象が脚元からドッとばかりに燃え上った。
乾き切っていたところと見え、前脚にメラ/\とたちあがった火が、舐《な》めずるように胴のほうへ這って行き、瞬《またた》く間に大きな象の身体《からだ》を紅蓮《ぐれん》の焔でおし包んでしまった。
象の脚元に蹲《うずく》まっている一人の男。
井桁格子《いげたごうし》の浴衣に鬱金木綿《うこんもめん》の手拭で頬冠《ほおかむ》り。片袖で顔を蔽って象のそばから走り出そうとすると、人気《ひとけ》のないはずの松の根方《ねかた》から矢庭《やにわ》に駈け出した一人。
「野郎ッ!」
間をおかずに、今度は葭簀の裏からまた一人。
「美濃清、御用だ」
件《くだん》の男は、げッ、と息をひいて、つんのめるように闇雲《やみくも》に駈け出した。と見るうちに、もやい合った夏草に足を取られて俯伏せにどッと倒れた。
同体になって一人は肩、一人は足。グイッと押えつけておいて、
「じたばたするねえ、ももんがあ奴《め》」
「足掻《あが》きやがるな、経師屋《きょうじや》」
男は、歯軋《はぎし》りをして、
「畜生ッ、桝落《ますおと》しにかけやがったか」
ちえッ、と舌を鳴らすのを引起して顔を見ると、美濃屋清吉。……
肩を押えたのは、北番所《きた》の土州屋伝兵衛。足を掴んだのは、南番所《みなみ》の戸田重右衛門《とだじゅうえもん》だった。
薪割りから水汲みと、越後から来た飯炊男《めしたきおとこ》のように実を運んでも、笹の雪、撓《しな》うと見せて肝腎なところへくるとポンと撥《は》ねかえす。美濃清も愚痴な男ではないのだが、もう抜きも差しもならない恋地獄。祭礼の酒に勢いを借りて最後の手詰めの談判をして見たがどうにもいけない。定太郎のことでいっぱいで、あなたのことなんぞは思って見る暇もないという愛想尽かしだった。
定太郎がいるばっかりにと思いつめたら、もう何を考える余地もない。どんなことがあったって里春を生きたままでは定太郎に渡さねえ。
親父が死ぬときに、そっと囁いた象の後脚のからくり。ちょうどそこへ定太郎が入ることから思いついて巧く仕組んだ象の中の人殺し。
定太郎の縁組が近づくのに、里春に纏いつかれて困っていることは町内で知らないものはない。せっぱ詰って定太郎が里春を殺したと見せかけるつもり。それには象が練っている途中に殺したと見せるのでなければ拙《まず》い。象の腹の内側に桐油を張って漆で留め、二刻ぐらいは血が外へ洩れないようにして置いた。
里春を殺したのは、象の背中から中へ入れたときだった。座蒲団を持ってじぶんも一緒に入ってゆき、隙を見すまして左手で口を蔽い、右で乳の下をグッとひと刺し、象のまわりではチャルメラや鉄鼓をかしましく囃し立てていたので、里春の知死期《ちしご》の叫び声は象の脚元にいた植亀や藤助の耳にも聞
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