はみんな引っ込めてしまって、象が胸から血を滴らしたのは何故だろう何故だろうと、何気ないふうに触れて歩け。かならず美濃清が象を焼きに来る」

 夕方からとの曇《ぐも》って星のない夜。
 まわりは空地なので、祭礼《まつり》の提燈の灯もここまではとどかない。
 蓬々《ぼうぼう》の草原に、降るような虫の声。
 濃い暗闇《やみ》のなかに墨絵で描いた松が一本。
 その幹へさしかけにした葭簀囲いの間から、闇夜にもしるく象の巨体が物の怪《け》のようにぼんやりと浮きあがっている。
 祭礼《まつり》のさざめきもおさまって、もう、かれこれ丑満《うしみつ》。
 蛍火《ほたるび》か。……象の脚元で火口《ほぐち》の火のような光がチラと見えたと思うと、どうしたのか、象が脚元からドッとばかりに燃え上った。
 乾き切っていたところと見え、前脚にメラ/\とたちあがった火が、舐《な》めずるように胴のほうへ這って行き、瞬《またた》く間に大きな象の身体《からだ》を紅蓮《ぐれん》の焔でおし包んでしまった。
 象の脚元に蹲《うずく》まっている一人の男。
 井桁格子《いげたごうし》の浴衣に鬱金木綿《うこんもめん》の手拭で頬冠《ほおか
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