象の腹の中にいた通りのかたちに横《よこた》える。
 朝の光で見ると、一段と美しい。透き通るような白い手を胸の傷口のあたりへそっとのせ、空へ眼を向けてホンノリと眼眸《まなざし》を霞ませている。着付でひと眼で知れる。堅気ではない。師匠か、お囲いもの。
 菰へ膝をついて、熱心に検証している菘庵へ、伝兵衛、
「先生、御検案は。……殺されてから、大体どのくらい時刻《とき》が経っておりましょう」
「何しろこの暑気《しょき》。それに、風の通さぬ張物の中。はっきりしたことは申しかねるが、まず、ざっと今から二刻《ふたとき》から二刻半《ふたときはん》ぐらいまでの間……」
「すると、大凡《おおよそ》、白むか白まぬかのころ」
「まずその見当。……が、いまも申した通り、こういう情況では、死体の腐敗が意外に早いかも知れぬから、きっぱりした断定は下されぬ」
 人垣のうしろから伸びあがって死体を覗き込んでいた、重右衛門、
「おッ、これは、清元里春《きよもとさとはる》……」
 と呟き、何か思い当ることがあったらしく、
「……なアるほど、そういうわけか。これで当りがついた」
 あとは聞えよがしの高声、
「飛んだお邪魔。なにとぞ、ごせっかく。ずいぶん精を出して、犬骨を折って鷹に取られねえよう、ご用心」
 憎まれ口をきいて、いつものように前屈みになってセカセカと出て行った。
 目ッぱの吉五郎は、忌々《いまいま》しそうに重右衛門の後姿を見送りながら、伝兵衛に、
「いま重右衛が呟いていたのを聴くと、これは清元里春という女だそうですが、いずれ、何か祭に絡んだ遺恨でもあったものと思われますが……」
 と言いながら、小柄な身体を二つに折るようにして伝兵衛のそばへ蹲《うずく》まり、
「どんなことがあったって、死骸を脚から腹へ送り込むというわけにはいかないから、たぶん、どこかへ穴をあけてそこから死骸を放りこみ、穴をもとの通りに塞いだのにちがいねえと思いますが、あなたのお推察《みこみ》はいかがです」
 伝兵衛は、頷いて、
「俺もさっきからそのことを考えていたんだ。象の周囲《まわり》をグルグル廻って見たが、胴も腹も古い細工で、塗直したようなところも見当らねえ。……もしそんなところがあるとすれば、あの段通《だんつう》の下。……おい、目ッ吉、象の肩にかかっているあの段通を引ン捲《めく》って見ようじゃないか」
「ええ、やって見ましょう」
 段通に双手《もろて》をかけて力任せに引き剥ぐと、ちょうど象の背中の稜《みね》からすこし下ったあたりに、ひとが一人はいるくらいの大きさに胡粉の色が変ったところがある。
 伝兵衛は、目ッ吉と眼を見合せてから梯子をのぼって色の変ったあたりへ掌《てのひら》をあて、眼を近づけてためつすがめつしていると、真上から照りつける陽《ひ》の光で胡粉の中に何かキラリと一筋光るものがある。指で摘んで見ると、それは頭髪《かみのけ》。
「おい、目ッ吉、ここに頭髪が一本|梳《す》きこまれているが、これア古い時代のもんじゃねえ、昨日今日のもの」
 目ッ吉は、含み笑いをして、
「ねえ、親方、それアたぶん美濃清《みのせい》の頭髪でしょう」
「どうしてそんなことが知れる」
「だって、こんな手際な仕事は素人には出来ません。……この通り、糸瓜《へちま》で形をつけ、胡粉で畝皺《うねじわ》までつくってある。……そればかりじゃない。下手な人間などはどんなことがあったって象の背中へなんぞへのぼらせない。ところで、美濃清なら、手直しとかなんとか言やア、大勢の見てる前で大っぴらにどんな芸当だって出来るんです」
 伝兵衛は、首を振って、
「いやいや、ここを塗直したのは美濃清かも知れねえが、それだけのことで美濃清が里春を殺《や》ったと決めてかかるのはどうだろう。……この象は昨日の日暮れ方永田の馬場へ持って行って葭簀囲いにし、朝鮮人になる町内の若い者が二十人ばかり、象のまわりでチャルメラを吹くやら、鉄鼓《てっこ》を叩くやら、夜の明けるまで騒いでいた。いかな美濃清でも、あれだけの人数がいる中で人を殺し、その死体を象の中へ塗込めるなんてえ芸当は出来そうもない」
「それじゃ、いったい、どういうんです。菘庵先生の話じゃ、殺されてから二刻か二刻半という御検案ですが、そうだとなりゃアこれはまるっきり雲を掴むような話」
「さっき重右衛門が、いやに北叟笑《ほくそえ》んで駈け出して行ったが、たぶん、お前の推察《みこみ》とおなじに美濃清をしょッぴくつもりなんだろうが、俺の推察《みこみ》はすこしちがう」
「すると……」
「美濃清一人じゃ、この芸当は出来まいというのだ。……かならず、二人三人と同類がある」
「へえ」
「つもっても見ねえ、あの象は十四日の夕方まで伝馬町の火避地《ひよけち》に飾ってあったんだが、渡初《わたりぞ》めがはじまって
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