持ちだして来て、熱心にやっていたふうです……私の見たのはそれだけ」
「それだけ、というのは?」
「女が窓のカーテンをひいたので、私のいる位置から、なにも見えなくなったということです」
加藤捜査一課は刺激的な冷笑をうかべながら、
「大池とあの女がロッジで落合えば、どんなことをするぐらいのことは、ここにいたって想像がつく」
と、しゃくるようなことをいった。
「君はそんなことを報告するために、伊東までやって来たのか」
「いや、ちょっとお話したいことがあって」
「どんな話だね?」
「ロッジへ入って来たのは、大池忠平でなくて、名古屋で工場をやっている、弟の大池孝平です」
捜査一課は下眼《しため》になって、なにか考えていたが、煙草に火をつけると、胡散くさいといったようすで問いかえした。
「忠平でなくて、孝平か」
「そうです」
「えらいことを言いだしたな……それは確信のあることなのか」
「兄の忠平は顔写真でしか知りませんが、孝平のほうなら、たびたび名古屋の家へ宅参《たくまい》りして、いやというほど顔を見ていますから、間違えるはずはありません」
捜査一課は丸山捜査主任のほうへ向きかえると、癇のたった声で投げだすようにいった。
「あのプリムスは、大池忠平が東京を逃げだすとき、乗って行ったやつだったんで、ちょっと、ひっかかった。ちくしょう、味なことをしやがる」
丸山捜査主任は渋い顔でうなずいた。
「それは、あの女が言ってましたね……ロッジで逢ったのは、顔写真の男とはちがうようだって……あれは正直な発言だったんですな……皮肉な女だ。てんで舐めてかかっている。あれはマレモノだよ」
「うまく遊ばれたらしいね」
畑中刑事が捜査一課にたずねた。
「部屋長さん、二人をひっぱっちゃいけないんですか。あんなことをしておくと、なにかはじまりそうな気がするんですが」
「どういう名目でひっぱるんだ? ひっぱったって留めておくことはできないぜ……兄が自殺するというので、おどろいて飛んできた、なんていうだろうし……弟のほうには、いまのところ、共犯だという事実はなにもあがっていない」
「じゃ、女のほうだけでも」
「だめだろうね……相当、こっぴどくやったつもりだが、洒々《しゃあしゃあ》としていた……それゃ、そうだろう。大池の弟とツルンでロッジに泊りこんだって、とがめられることはないはずだから」
そういうと、クルリと丸山捜査課長のほうへ向きかえた。
「丸山さん、これゃ捜査の対象にならないね。二課はどうするか知らないが、われわれは、明日、引揚げます。書置一本に釣られて、こんな騒ぎをしたと思うと、おさまりかねるんだが、どうしようもないよ」
そこへ本庁の木村刑事が、婦人用のスーツ・ケースをさげてブラリと入ってきた。
「部屋長さん、遅くなりました。ちょっと聞込みをしていたもんだから」
「なんだい、そのスーツ・ケースは」
「これですか。これは宇野久美子の遺留品です」
「そんなもの、どこにあったんだ?」
「大阪行、一二九列車の二等車の網棚の上に……二等車の乗客の中に、宇野久美子のファンがいた。宇野久美子がスーツ・ケースを提げて入って来たので、宇野久美子だと思いながら見ていると、このスーツ・ケースを網棚に放りあげて、前部の車室に行ったきり、大阪駅へ着いても帰って来ない。それで車掌に、これは東洋放送の宇野久美子のスーツ・ケースだから、東京へ転送してくださいと頼んだというのです」
「開けてみたまえ」
木村はジッパーをひいて、スーツ・ケースの内容をさらけだした。灰銀のフラノのワンピースに緋裏《ひうら》のついた黒のモヘアのストール、パンプスの靴とナイロンの靴下が入っていた。
「つまり、これは宇野久美子がアパートを出るときに着ていたものなんだな」
「そうです。管理人の細君が確認しました」
「豊橋駅はどうだった」
「木谷刑事をやりましたが、ちょっと奇妙なことがありました。駅の広報係が、その汽車に乗り遅れたから、待たずに、先に行ってくれと、東洋放送の宇野久美子宛のアナウンスを依頼された。その女は、ナイロンのジャンパーに紺のスラックスを穿き、ベレエをかぶって、絵具箱を肩にかけていたというんです」
「なんだ、それは宇野久美子自身じゃないか。どういうことなんだろう」
「さあ、どういうことなんでしょう……変った聞込みが二つありました」
「どうぞ」
「宇野久美子のジャンパーのポケットに、ブロムラール系の催眠剤が入っていたといわれましたが、三年前、大池忠平の前の細君が、ブロムラール系の催眠剤の誤用で死んでいます」
「どこで聞きこんだ?」
「大池忠平の身元調書に、細君が中毒死したという記載がありましたので、主治医を探して聞きだしました……もうひとつは、これも二年前の秋、声優グループの仲《なか》数枝という女が、宇野久美子の部屋で自殺しています。宇野久美子の行李の細引で首を締めて、一気に裏の竹藪へ飛んだというんです……結局、自殺ということになりましたが、一時は、絞殺して、二階の窓から投げ落したんじゃないかという嫌疑が濃厚だったそうです」
「それだけか」
「いまのところは、これだけですが、洗えばまだまだ、いろいろなことが出てきそうです」
大池は、身体の深いところを測るような、深刻な眼つきで、ジギタミンを三錠ずつ、一時間おきに飲んだ。動悸もおさまり、普通に話ができるようになったが、胸中の不安はいっこうに薄らがぬふうで、見るもみじめなほど悶えていた。
「大池さん、十時間や十二時間、すぐ経ってしまってよ……一人でいるのが不安なら朝までおつきあいしますから、イライラするのはよしなさい……だいじょうぶ、死にはしないから」
「自分の身体のことは、私がよく知っている。とても明日の朝まで保《も》ちそうもない。だめだという感じだけで参ってしまうんだ……頭のたしかなうちに、言っておきたいことがある。宇野さん、聞いてくれないかね」
聞きたいことなど、なにもない。だまっていてくれるほうが望みだったが、大池のあわれなようすを見ると、そうは言いかねた。
「聞いてあげてもいいわ。それで、あなたが気が休まるなら」
「私が何者だか、君はもう察しているだろう。二十日の朝、名古屋の私のところへ、君代が東京から長距離電話で、こんなことをいってきた。半年近く逃げまわって、忠平が疲れきっているから、すこし休ませてやりたい。忠平のところへ石倉をやって、この湖水で自殺するという遺書を書かせたが、形のないことではしょうがないから、伊豆へ行ってロッジで一と晩、泊ってくれれば、あとは石倉がいいようにこしらえるから、という話なんだ」
「石倉って、どういう関係のひとなんです?」
「石倉は君代の弟だ……トンネル会社へ融資する形式で隠しこんだ資産を、捜査二課では三千万から六千万の間と踏んでいるらしいが、どんな操作をしたって、そんな芸当ができるわけはない。その十分の一もあればいいほうだ、わずかばかりの隠し財産に執着して、時効年まで逃げまわるなんて、バカな話だと思うんだが、世間ではそろそろ忘れかけているのに、下手に捕って、むしかえされるのではかあいそうだという気持もあった……企画は、まったく他愛のないようなことなんだ……兄が乗り捨てたプリムスが豊橋のガレージにある。それでロッジへ乗りつける。煖炉をたいて煙突から煙をだす。石倉はそれを見るなり吉田へ行く。その日、湖水の近くにいなかったというアリバイをつくるために、知合いの家に泊って、翌朝、早く帰ってくる。私は夜明け前、ボートで対岸へ行って、バンガローに隠れている。石倉がいいころにハイヤーを廻してよこす。修善寺へ抜けて、夕方の汽車で名古屋に帰る……」
「バンガローに行きたいといったのに、行かせなかったのは、そういう事情があったからなのね」
「お察しのとおり……夕食後、君は散歩に出て、一時間ほどして帰ってきた……十一時頃、私が二階から降りると、君は病的な鼾をかいて、長椅子で昏睡していた。そのときの印象は、もう助かりそうにもないように見えた……枕元のサイド・テーブルに下部《しもべ》鉱泉の瓶とコップが載っている……私がロッジに来る前に、鉱泉に催眠剤を仕込んでおいた奴がある。湖水の分れ道で君を拾ったことは、誰も知らないはずだから、目当ては、当然、私だったのだと思うほかはない……泊ってくれるだけでいいなどと、うまいことをいってひっぱりだして、私を殺して湖水に沈めるつもりだったんだ」
「その話は妙だわね。あたしはこうして生きているわ」
「ブロムラール系の催眠剤十五グラムは、健全な人間には致死量にならないが、特異質や身体異常者……たとえば、妊婦とか、心臓、腎臓の疾患者は、その量で簡単に死んでしまうというんだ。私のような冠疾《かんしつ》患者があの鉱泉を飲んだら、当然、死んでいたろう」
「鉱泉を分析してみたわけでもないでしょう。そこまで考えるのは、すこし敏感すぎるようね」
「前例がある……兄の前の細君の琴子と、トンネル会社をひきうけていた水上という男が、催眠剤の誤用で死んでいる。琴子は妊娠中で、水上は腎臓をやられていた。君代ぐらい催眠剤を上手に応用《アダプト》するやつもないもんだ。感服するほかはないよ」
「いやな話だわ。あの奥さん、そんなひとなの」
「そんな女なんだ……こんどの破産詐欺も隠し資産も、みんなあの女が手がけたことだ……琴子の場合はこうだった。琴子は胸の悪いところへ妊娠して、不眠で苦しんでいた。そのとき女子薬専を中退したばかりの君代が、派出看護婦で来ていた。琴子は君代に催眠剤をくれというが、やらない。そこが読みの深いところで、気の弱い兄が情《じょう》に負けて、いずれ、こっそり催眠剤をやるだろうと見込んでいた……予想どおり、兄は君代に隠してブロムラールを〇・三やった……〇・三で死ねるわけはないのだが、琴子は昏睡したまま、とうとう覚醒しなかった……兄は琴子を殺したのは自分だと思いこんでいるもんだから、君代に退引《のっぴき》ならない弱点をおさえられて、思いどおりに振廻されることになった」
「それで、こんどはあなたの番になったというわけ?」
「ひどい話だ。まごまごしていると、なにをされるかわかったもんじゃない。漕ぎだしたように見せかけるために、もやいを解いてボートを突きだし、今日の夕方まで林の中に隠れていた……ボーイ・スカウト大会のジャンボリーが終ると、子供達の附添や父兄が帰るので車が混みあう。誰かの車に便乗させてもらえれば、うまく検問を通れそうだ……日が暮れてから、ロッジへ来てみると、ボートはあるがプリムスはない。ボートは苦手《にがて》だが、急がずにやれば向う岸まで行けそうだ。そう思ってボートに乗った。石倉もさるもので、林の中から這いだしてから、私がどういう行動をとるか見抜いて、ボートの底に仕掛けがしてあった……栓を抜いて牛脂《グリース》でも押込んであったんだろう。ものの二十メートルも漕ぎださないうちに、ブクブクと沈んで、否応なしに泳がされた……私の心臓にとって、泳がされるくらい致命的な苦行はない。もう十メートルも遠く漕ぎだしていたら、心臓麻痺で参っていたろう」
大池はめざましく興奮して、見ていても恐しくなるような荒い呼吸をついた。
「こういう目にあってみると、いったい、なんのせいで、兄があんなふうに逃げまわっているのか、よくわかった。兄は警察を恐れているんじゃなくて、君代や石倉を恐れているんだ……水上が妙な死にかたをしたので、こいつはあぶないと気がついたんだ。些細な隠し資産を誇大に言いふらしているのも、あの二人に隠れ場所をおしえないのも、そうしておけば、殺されることはないと考えたからなんだ……戦後、悪党というものの面を数かぎりなく見たが、あいつらほどの奴はいなかった。こちらもいろいろと古傷を持っているから、警察と係りあうのはありがたくないが、こんどばかりは、もう黙っていない」
発条《ぜんまい》のゆるんだ煖炉棚の時計が、ねぼけたような音で十一時をうった。
話を終りにさせるつもりで、久美子はおっかぶせるようにいっ
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