がデリケートすぎて、われわれにはよくわからない。レンズには収差というものもあるし、額のあたりにハイ・ライトがかかると、実際より強い感じになることもある……あまり世話を焼かせずに、署名したらどうだ」
「それでいいなら、喜んで署名するけど、キャラクターだけのことではなくて、ほかにも、いろいろと妙なことがあったのよ」
 鍵のかかるバンガローなんか一つもないのに、鍵を預っている男が吉田へ行っているから、バンガローは使えないだろうといったこと、部屋の中はうっとうしいくらいの陽気なのに、むやみに松薪をおしこんで、煖炉を燃やしつけたこと、大池のボートならロッジの近くの岸にあるべきはずなのに、一町も離れたところに繋いであったこと、なにかの方法で催眠剤を飲ませられたらしくて、翌朝まで酩酊状態が残っていたこと……心にかかっていたことを、ありったけ吐きだしたが、主任は笑うばかりで相手にもならなかった。

 石倉があらわれるかと、ひそかに怖れていたが、いそがしいのか、石倉はあらわれず、伊東署の連絡係の若い巡査が心をこめて夕食の世話をしてくれた。
 食慾はなかったが、無理をして、パン粥を一杯食べた。
「おいしかったわ」
「食が細いねえ。もうすこし、やったらどうだ」
「心臓のところが重っ苦しくて、食べられないのよ」
「そうか。無理をしちゃ悪いな」
 しみじみとして、残っていられるなら、残っていてもらいたかったが、七時ごろ、おだいじにと言って帰って行った。
 夜になると、対岸の草地でジャンボリーがはじまった。キャンプ・ファイヤーを囲んで讃美歌やボーイ・スカウトの歌を合唱している。
 降るような星空の下、釉薬《うわぐすり》を流した黒い湖の面に、ちりばめたようにキャンプ・ファイヤーの火の色がうつり、風が流れると、それが無数の小さな光に細分され、眼もあやにゆらゆらとゆらめきわたる。
 久美子は子供たちの合唱を聞くともなく聞きながら、空の中にある満々と張りつめたもののたたずまいをぼんやりとながめていたが、そのうちに、なんともつかぬ嫌悪の念に襲われて、枕に顔を伏せた。
 昨日まで、あんなにも心を惹かれた湖の風景が、なぜか嫌らしくて見てやる気もしない。安らかな方法で自殺しようなどと、あてどもないことを考えていたが、そんな方法はありえないことを身をもって学んだ。父のように肝臓癌で阿鼻叫喚のうちに悶死するにしても、たぶん、もう二度と自殺しようなどとは考えないだろう。
 久美子は自嘲するようにニヤリと笑った。
「たいへんなことになった」
 自殺という作業を完成しようと、それだけにうちこんできたが、その目標が失われたので、することがなくなった。古びた生活の糸で、昨日と明日の継ぎ目を縫いつづけなくてはならない。夢や希望がなくなり、憎しみだけがふえ、ひねくれた、意地の悪い、ご注文どおりのオールド・ミスになっていくのだろう。
 子供たちはジャンボリーに飽き、湖水めぐりを始めたらしく、高低さまざまな歌声が湖畔の南側をまわってロッジのほうへ近づいてくる。
 久美子は強いて眼を閉じたが、今日一日のさまざまな出来事が頭の中で波うって、どうしても眠ることができない。心臓には悪いが、ブロミディアにたよるしかないと思い、ベッドから這いだし、ジャンパーをとりに階下の広間におりた。
 ジャンパーの胸のかくしから、ブロミディアの容器をとりだし、水をとりに厨のほうへ行きかけたとき、風呂場につづく裏口のほうで、うさんくさい足音が聞えた。
 ガレージの横手をまわり、芝生の縁石を踏みながら裏口に近づいて来る。
「誰だろう」
 遅いというほどの時間ではないが、玄関をよけて裏へまわりこんでくるのが納得がいかなかった。久美子は広間の中ほどのところに佇み、秘密めかしい訪問者の入ってくるのを辛抱強く待っていた。
 煖炉の右手の扉のノッブがそろそろと動き、音もなく開いたドアの隙間から黒い人影が広間に辷りこんできた。
「ああ」
 大池忠平と名乗ったあのスポーティな紳士だった。全身びしょ濡れになり、芯のぬけた、とほんとした顔で立っている。
「こんどこそ殺《や》られる……」
 久美子は声にならない声で悲鳴をあげながら、片闇《かたやみ》になった階段の下へ逃げこんだ。
 偽装自殺が成功するかしないかという瀬戸際に、危険をおかしてロッジへ入りこんでくる以上、なにをするつもりなのかわかっている……今朝、石倉がやりかけたことを、大池忠平が完了しようというのだ。
 風の中に歌声がある。
 カンテラを持って、湖畔を練り歩いている子供達の歌声が、湖の東岸のほうへ遠退いて行く。小さな湖をへだてた、つい向う岸に、三百人近くの人間の集団がキャンピングしているのに、危急を告げることも助けを求めることもできないという自覚は、世にも残酷なものだった……
 大池は腕組みするような恰好で胸を抱き、脇間の扉口のそばに影のように立っていた。ものの十分ほどもしてから、服の袖で額の汗を拭うと、片手で胸をおさえ、壁にすがりながら壁付灯の下まで行ったが、力がつきたように、そこで動かなくなってしまった。
「どうかしたんだわ」
 久美子の恐れていたようなことは、なにもなかった。
 壁付灯の光に照らしだされた大池の正体は、意外にもみじめなものだった。湖岸の泥深いところを歩きまわったのだとみえ、膝から下が泥だらけになり、靴にアオミドロがついている。濡れた髪を額に貼りつかせ、土気色《つちけいろ》になった頬のあたりから滴《しずく》をたらしているところなどは、いま湖水からあがってきた、大池の亡霊とでもいうような、一種、非現実的なようすをしていた。
「う、う、う……」
 大池は肩息をつきながら、家宅捜索でめちゃめちゃにひっくりかえされた広間の中を見まわし、マントルピースの端に縋って食器棚《ビュッフェ》のほうへよろけて行ったが、曳出しに手をかけたまま、ぐったりと食器棚に凭れかかった。
「ああ、誰か……」
 たいへんな苦しみようだ。久美子は闇の中に立っていたが、放っておけないような気がして、大池のそばへ行った。
「大池さん、あたしです。どうなすったの」
 大池は嗄れたような声でささやいた。
「ジガレンの注射を……」
 大池は心臓発作をおこしかけている。
 どんな嫌疑を受けても、犯した罪がなければ、いつかは解けると多寡を括っていたが、この二日、警察とのやりあいで、そうばかりはいかないらしいことをさとった。一人だけでいるところで死なれでもしたら、どんなことになるかわかったものではない。
「ともかく、長椅子に行きましょう」
 大池を長椅子のところへ連れて行くと、上着を脱がせ、クッションを集めて座位のかたちで落着かせた。洗面器に井戸水を汲んできてせっせと胸を冷やしたが、こんなことでは助かりそうもなかった。
「応急薬といったようなものはないんですか、あるなら探して来るけど」
 大池は食器棚を指さした。
「……ジギタミンと、赤酒を……」
 食器棚の曳出しにはそれらしいものはなかったので、浴室へ行って、壁に嵌め込んだ鏡付のキャビネットの中を見た……「ジギタミン」というレッテルを粘った錠剤の瓶がガラスの棚の上に載っていた。日本薬局方の赤酒は、赤い封蝋をつけてウイスキーの瓶のとなりに並んでいた。
「安心なさい。ジギタミンも赤酒もあったわ」
 コップの水を口もとに持っていくと、大池は飛びつくようにして錠剤を飲みこんだ。
 三十分ほどすると、大池は眼に見えて落着いてきた。荒い息づかいがおさまり、脈のうちかたもいくらか正常になったが、寒いのかとみえて、鳥肌をたててふるえている。
 燃えさしの松薪を集めて煖炉を燃しつけにかかると、大池は恐怖の色をうかべて呻いた。
「煙突から炎をだすと石倉がやってくる」
 大池が石倉を恐れているのは意外だった。
「石倉が来れば、困ることでもあるの」
 大池は返事をしなかった。
「大池さん、まあ、聞いてちょうだいよ……雨の中で拾われたのはありがたかったけど、ロッジに泊めてもらったばっかりに、さんざんな目に逢ったのよ」
 そんなことをいっているうちに、われともなく昂奮して、この二日の間の出来事を洗いざらいしゃべった。どうでもいいつもりでいたが、深いところでは、やはり腹をたてていたのだとみえ、しゃべりだすと、とめどもなくなった。
「あなたは生きているんだから、自殺干与や殺人の容疑はなくなったわけだけど、今夜、二人だけでいたことがわかると、共犯だなんだって、またむずかしいことになるのよ……逃げまわるのは勝手だとしても、あたしがK・Uなんて女でないことを証明していただきたいのよ。どんな方法でもいいから……」
 大池がまじまじと久美子の顔を見かえした。
「K・Uなんて女性は、はじめっから存在しない。あれは君代が警察をまごつかせるために、考えだしたことなんだ……こんな目にあわなかったら、明日、伊東署へ行くつもりだったが……いや、早いほうがいい。宇野さん、すまないが、警察の連中を呼んで来てくれないかね。その辺に張込んでいるんだろうから」
「警察のひとはみなひきあげたふうよ……連絡係の警官が、明日の朝、八時ごろ、見にくるといっていたけど」
 大池は気落ちしたように、がっくりと首をおとした。
「私の冠状動脈は紙のように薄くなっている。こんど発作をおこしたらもう助からない……明日の朝まで十二時間……それまで保合《もちあ》ってくれるかどうか、辛い話だよ」
 大池は自首することにきめたらしい。すこしも早く警察と連絡をつけたいふうだが、湖水の近くで電話のあるところは、キャンプ村の管理事務所か伊東ゴルフ場のクラブ・ハウスだけ。どちらも二キロ以上あって、いまの久美子の健康状態では、とてもそこまで出掛けて行くことは出来ない。
 久美子は落着かなくなって、玄関のほうへ行った。子供達でも通ったらと、脇窓のそばで聞耳をたてていたが、対岸のキャンプ村では、みなテントに寝に入ったとみえ、笑い声ひとつ聞えない。久美子はあきらめ、脇窓のカーテンをひいて、大池のそばに戻った。大池は自分だけの思いに沈みこんでいるふうで、鬱々と眼をとじていた。

 夜の十時近く、捜査本部になっている伊東署の捜査主任室に、本庁の畑中刑事が入ってきた。薬鑵の水を湯呑についで飲むと、奥のデスクで丸山捜査主任と打合せをしていた加藤捜査一課のそばへ行った。
「おう、畑中君、さっきの電話連絡、聞いたよ……出て来たそうだな。女を泳がせた甲斐があったと、丸山さんと話していたところなんだ……どこから出て来た?」
「湖水からあがって来ました」
「山林《やま》へ入ったんじゃなかったのか」
 畑中刑事は照れくさそうに頭へ手をやった。
「山林のほうばかり警戒していたので、鼻先へ突っかけられて、あわてました」
「対岸からボートでやって来たのか」
「いや、そうでもなさそうです。こちらの岸をずっと見てまわりましたが、ボートらしいものは着いていませんでした」
 加藤捜査一課は納得しない顔で問いつめた。
「妙な話だな……どういうことなんだい」
「星明りで、はっきりとアヤは見えなかったが、どこかやられたらしくて、フラフラになっていました……ガレージの横手からまわりこんで、勝手口からロッジへ入りました」
「女はどうした?」
「お見込みどおりでした。時間の打合せがあったのだとみえまして、女のほうが先に二階から降りて、ホールで待っていました」
「おかしいね、それを、どこから見たんだ」
「玄関の脇窓から」
 加藤捜査一課は背筋を立てると、頭ごなしにやりつけた。
「絶対にロッジの近くへ寄りつくなといったろう?……まずいことをするじゃないか。感づかれると、やりにくくなって困るんだ」
「いや、どうも……立っていたところに、偶然に窓があったもんですから」
「感づかれたらしいようすはなかったか」
「大丈夫だろうと思います」
「君が大丈夫というなち、大丈夫だろう……つづけたまえ」
「……女は大池を長椅子に寝かせると、洗面器に水を汲んできて大池の胸を冷やしていました。薬だの酒瓶だの、いろいろと
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