た。
「大池さん、十一時よ……あと七時間……いままで保《も》った心臓なら、明日の朝まで保つでしょう。しゃべるのはそれくらいにして、すこし眠ったらどう」
 胸にたまっていたものを吐きだしたので、気持が楽になったのか、大池は素直にうなずいた。
「眠れるかどうか、やってみる……赤酒をください。三十CCぐらい……心臓というのは気むずかしいやつでね、交際《つきあ》いきれないよ」
 久美子はコルクの栓を抜き、いいほどにタンブラーに赤酒を注いで渡した。大池は小鳥が水を飲むように、時間をかけてチビチビと赤酒をすすりこむと、眠るつもりになったらしく、クッションに頭をつけて眼をとじた。
 なんとなく静かな顔つきになったと思ったら、大池は鼾をかきはじめた。
 湖水のほうから来る風が、潮騒のような音をたてて林の中を吹きぬけてゆく。風の音と鼾の音が一種の階調をつくって、ひとを睡気にさそいこむ。久美子は床に坐り、長椅子の端に額をおしつけて、うつらうつらしていた。
 鎧扉をあおる風の音で眼をさました。ちょうど十二時だった。
 大池は調子の高い鼾をかき、なにか操《あやつ》られているように、グラグラと頭を左右に揺っていた。薄眼をあけ、動かぬ瞳で空間の一点を凝視している。ただごとではなかった。
「大池さん……大池さん……」
 肩をゆすぶりながら、大池の手の甲に、コルク抜きの先を、思いきり強く突きたててみた。なんの反応もない。
「とうとう……」
 久美子が恐れていたのは、このことだった。
 赤酒になにか曰《いわ》くがあったのだろうが、そんな詮策はどうでもいい。さしあたっての急務は、なんとかして大池の命をつなぎとめることだ。さもないと、えらい羽目になる。こういう状況では、どんな嫌疑をかけられても、釈明する余地はないわけだから。
 ともかく医者を呼ぶことだ。煙突から炎をだせば、石倉がやってくるといっていた。石倉は敵だが、いま利用できるのは石倉のほかにはない。
 久美子は煖炉の燃えさしの上に紙屑や木箱の壊れたのを積みあげ、ケロシン油をかけて火をつけた。威勢よく燃えあがった松薪の炎が、鞴《ふいご》のような音をたてて吸いあげられていく。
 久美子は煖炉の前の揺椅子に掛け、浮きあがるような気持で石倉を待っていた

 三日後、朝の十時ごろからはじまった取調べが、夕方の五時近くなってもまだ終らない。伊東署の調べ室で、加藤捜査一課と久美子が、永久につづくかと思われるような、はてしもない言葉のやりとりをくりかえしていた。
 窓のない、一坪ばかりの板壁の部屋で、磨ガラスの扉で捜査主任の部屋につづいている。たえずひとの出入りするバタバタいう音や、ひっきりなしに鳴る電話の音が聞えて来る。
 長い沈黙のあとで、加藤捜査一課が、ぼつりと言った。
「なにか言ったらどうだ」
 久美子は冷淡にやりかえした。
「なにも言うことはないわ」
「こちらには聞きたいことがある」
「疲《くた》びれたから、これくらいにしておいてください」
「なにも言わないことにしたのか」
「なにも言いたくないの。言ってみたって無駄だから」
「無駄か無駄でないか、誰がきめるんだ」
「あの晩のことは、全部、話したわ。あたしに都合の悪いことでも、隠さずに言ったつもりだけど、てんで信用しないじゃありませんか。このうえ、精を枯らして、捜査の手助けをすることもないから」
「手助けか。よかったね……おれは反対の印象をうけているんだ。君ほどのハグラカシの名人はいない。捜査一課の加藤組は、君にひきずりまわされて、ふうふう言っている。もう、かんべんしてくれよ……大池の弟を殺《や》ったのは君なんだろう? あっさり吐いたらどうだ」
「じゃ、あっさりいうわ。大池の弟を殺したのは、すくなくとも、あたしじゃありません。大池君代か石倉梅吉……そちらをお調べになったら?」
「大池孝平の身体からジキトキシンとブロムワレリル尿素が出てきた……君はブロミディアという薬を持って歩いていたが、あれはブロムラール系の催眠剤じゃないのか?」
「そうよ」
「あの赤酒は、孝平の兄の忠平が持薬にしていたものだ。前からロッジに置いてあって封蝋に日本薬局|方《ほう》の刻印がついていた……栓を抜いたのは誰だ?」
「あたしです」
「コップに注いだのは」
「それも、あたしです」
 捜査一課は、乾いたような低い笑い声をたてた。
「それで話はおしまいじゃないか。こんな明白な罪状を、どうして君は認めようとしないんだ? それじゃ、虫がよすぎるというもんだぜ」
 捜査一課は椅子から立つと、ドアをあけて、「スーツ・ケースを」と怒鳴った。連絡係の警官がスーツ・ケースを持って入ってきて、それを丸テーブルの上に置いた。
「大阪行の二等車の網棚へ捨てた君のスーツ・ケースだ。豊橋駅のホームで広報係の駅員に、アナウンスを依頼した事実もあがっている。湖水に絵を描きに来るのに、こんな手の混んだことをするのはどういうわけだ? 納得のいくように話してもらおう」
 癌になる前に、自分という存在を、上手にこの世から消してしまおうというのは、久美子の心の中の恥部で、できるなら隠しておきたいことだったが、ここまでおし詰められれば逃げきれるものではない。久美子は父が肝臓癌で死んだことから、放送局の屋上で「肌色の月」を見て、もういけない、と思い自殺を決意するまでの経過をありのままに話した。
「宇野久美子が自殺したと騒がれるのは、やりきれないと思ったから。そんな単純なことだったんです。この気持、おわかりになるでしょう?」
「自殺するにはいろいろな方法がある。場所もさまざまだ……ぜひ、あの湖水でなくてもいいわけだね?」
「あの湖水をえらんだのは、あそこで死体が揚ったためしがないと聞いたからです」
 捜査一課は背伸びのようなことをすると、灰皿に煙草の火をにじりつけて、椅子から立ちあがった。
「話にしては、よく出来た話だ……よかろう。癌研で徹底的に調べてもらってやる。そのうえで、ご相談しよう」



底本:「久生十蘭全集 6[#「6」はローマ数字、1−13−26]」三一書房
   1970(昭和45)年4月30日第1版第1刷発行
   1974(昭和49)年6月30日第1版第2刷発行
初出:「婦人公論」中央公論社
   1957(昭和32)年4〜8月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※底本は、結末部を夫人の久生幸子が加筆しています。著作権がきれる2053年までこのファイルからは割愛します。
入力:tatsuki
校正:ロクス・ソルス
2008年9月13日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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