倉に首を絞められ、水藻のゆらぐ仄暗い湖水の深みで必死に藻掻きながら、死というものの顔を、まざまざとこの眼で眺めた恐怖と絶望の瞬間。
「ああ」
 久美子は悚《すく》みあがり、われともなく鋭い叫声をあげた。
 まさに絶えようとする時の流れ……必死に抵抗していたのは、一秒でも長く命をつなぎとめようという、ただそのための藻掻きだった。
 死ぬことなんか、なんでもないと思っていたのは、なにもわかっていなかったからだ。あの辛さの十分の一でも想像することができたら、自殺しようなどという高慢なことは考えなかったろう。
「あたし助かったんだわ」
 自分というものを、こんなにいとしいと思ったことがなかったような気がし、久美子は感動して眼を閉じた。
「気がつかれましたね」
 隆は久美子の顔をのぞきこむようにしてから、仔細らしく脈を見た。
「もう大丈夫ですが、覚醒したら、臨床訊問をするといっていますから、念のためジガレンを打っておきましょう」
 久美子は無言のまま、マジマジと隆の顔を見あげた。なぜか、ひどく寛大な気持になり、怨みも憎しみも感じない。湖底の活劇は、遠いむかしの出来事のようで、いっこうに心にひびい
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