て来なかった。
「こんなこともあろうかと思って、いろいろ用意してきたのですが、お役にたったようで、私も満足です」
 注射器に薬液をみたして久美子の上膊に注射すると、撫でさするようなやさしさで、そこを揉みつづけた。
「宇野さん、よけいなお節介をして、あなたを死なせなかったのを、怒っていられるんじゃないですか……もし、そうだったら、お詫びしますが、私としては、あの場合、どうしたってあなたを死なせるわけにはいかなかった」
 意外なことを聞くものだ。久美子はムッとしかけたが、相手になることもないと思って、返事もせずにいた。
「引揚げようとすればするほど、深く沈もうとなさる。最後は、水藻にしがみついて離れようとしないんだから、強《きつ》かった」
 隆の眼頭に、一滴、キラリと光るものを見て、久美子はあわてて眼をそらした。
「溺れかける父を見捨てて、泳ぎかえってくるような、非情な方だと思っていましたが、まったくのところ誤解でした……そんな方だったら、父にしても、あれほど強くあなたに惹かれることはなかったろうし……はじめから、わかりきったことだったのです」
 久美子は、そっと溜息をついた。
「死んだ私
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