士の死体は、湖底のどこかで、ひっそりと藻に巻かれているのだろうが、死んだあとでもなお執拗に絡《から》みついて、久美子の運命を狂わせようとしている。大池の長男は、父の死体が揚るまでの自由、といった。たぶん、それにちがいないのだろう。いまは、わずかな息継ぎの時間。大池の死体が揚れば、訊問だの身許調査だの、うるさいこねかえしがはじまる。警察でも、大池を殺したとまでは思ってもいないだろうが、悪くすれば、すれすれのところまでいくかもしれない。これはもう、どうしたって避けることはできないのだ。
久美子は着換えをして運動靴を穿くと、ジャンパーの胸のかくしからコンパクトをだし、蓋の裏についている鏡をのぞいて、どんな訊問でもはねかえしてやる、図々しいくらいの表情をつくってみた。久美子自身は警察の連中を無視しているつもりだったが、こんなことをするようでは、やはり恐れているのだと思って、げっそりした。
「これはなんだっけ?」
コンパクトをジャンパーの胸のかくしに返そうとしたとき、なにか平べったい、丸く固いものが指先にさわった。指先に親しい感覚だ。
なんだろうと思いながら、とりだしてみると、アンチモニー
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