いう懸念があるなら、いくら私でも、こんなものをお渡ししませんや」
たった一言、心の中の秘密をうちあけることができるなら、浅薄な論理をはねかえしてやることができるのだが……徹底的にうち負かされた感じで、抵抗する気になれないほど、久美子は弱ってしまった。
「隆……隆……」
甲走った声で大池の細君が広間から二階へ叫びあげた。
「あなた、そこでなにをしているんです」
隆が部屋の中から叫びかえした。
「まあ待ってください……いま話してるところだから」
「押問答をするほどのことはない。簡単なことでしょう。そこから出てもらえばいいのよ」
「ええ、いますぐ……」
隆は当惑したように微笑してみせた。
「母も私も、父とあなたの……なんというんですか、身体を括《くく》りあったみじめな死体が揚ってくるのかと、ここへ着くまで、そのことばかり心配していたのでしたが……」
雨雲がロッジの棟の近くまで舞いさがってきて、隆のいるあたりが急に暗くなった。見えないところから声だけがひびいてくるようで、合点がいかなかった。
「母にしても、生涯、心の滓《おり》になるような光景を見ずにすんだことを感謝しているはずです。
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